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刺さる

 出勤前の身支度。会社での服装にも気を遣う。制服はなく、特に決まったドレスコードもないが、いかに「目立たないようにいられるか」という基準で服を選んでいる。服を買いに行った際、店員から話しかけられることも苦手な私は、すでに決定している同じ形のグレーかブラウンのパンツ、淡い色味のブラウス、というオフィスの内装に馴染むような服をユニクロで買い、自らの制服として身につけることが日常となっている。

 小さい頃から、人の視線を気にしながら生きてきた。だが、実際に生活を送る中で、私を見ている人などは全くいないのだと思う。しかし、それを確認する術はない。私も、他人の事なんて見ていないからだ。

 メイクもそうだ。肌荒れをファンデーションで隠し、血色をチークで足し、とりあえず、最低限、健康そうに見えるよう、顔面を整える。「アイラインをどんな角度で引くか」「リップは何色で塗るか」そうすることで、一気に顔面に意志が表れてしまうように感じるため、そこまでのメイクをする事に抵抗を覚える。他人に自分の顔面から意志を読み取られたくないと思ってしまう。今よりもチークを明るめにして、リップもツヤツヤしたものにしたら、男の人に媚びを売っていると思われ、先輩女性社員からの風当たりがきつくなりそうだ。またその逆に、今よりもアイラインを強めに引いて、眉をはっきり書いたら、接しづらい印象になり、後輩の男の子が申し訳なさそうに頼み事をしてくる姿が目に浮かんでしまう。どちらにせよ、会社の同僚からそんな目で見られながら働いている自分を想像しただけで、居心地の悪さを感じ、息苦しくなる。しかし、私には自分の顔面を使ってまで、他人に明確に主張したい意志がない。 必然的に何の主張もないメイクをすることしかできないのだ。

 身支度を整え外に出る。出勤する際には、人通りの多い大通りを避けて会社へ向かう。道端で同僚と遭遇してしまうことに気まずさを感じてしまうからだ。何メートルか先を同僚が歩いていたら、なんとか気づかれないように顔を伏せて追い抜くか、もしくは、さらに距離を空けるため、スピードをあえて落として歩いてみる。どちらの作戦でいこうかと考えながら、苦悶の表情で歩いているところを、別の同僚に見られ、薄ら笑いを浮かべながら挨拶でもされたら。恥かしさのあまり、その場に立ち尽くし、来た道を引き返す自分の姿が容易に想像できる。 などと考えていると、普通に歩くことも難しくなるため、少し遠回りにはなるが、人通りの少ない道を通勤経路にしている。

 心臓を縮ませながら歩いて来た道中では、幸いも同僚に出会うことなかった。無事に会社に到着し、心臓が少し緩んだが、まだ警戒心は解けない。 エレベーターに乗ってフロアに上がるが、正面入り口近くにある従業員用のエレベーターではなく、裏口近くにある荷物用のエレベーターに乗るようにしている。荷物用と言ってもそこまで大きなエレベーターではなく、利用する人と言えば、清掃用具を押しながら入ってくる清掃員のおじさんや、荷物の集荷にやって来る宅配便のお兄さんくらいで、同じ会社の人間はまず利用しない。清掃員のおじさんや、宅配便のお兄さんと乗り合わせた際、明らかに同業者ではないなという視線で見られることにも多少の気まずさは感じる。しかしそれ以上に、会社の同僚のような、多少なりとも関係性のある顔見知りの者と、エレベーターに乗り合わせることの方に苦痛を感じる。顔見知りだからこその気の利いた挨拶や、短い会話の取っ掛かりを考える間にフロアについてしまう。結局一言も発さないまま時間をやり過ごすしかない自分に、腹立たしさと虚しさを感じる事にも疲れてしまった私は、いつも荷物になりきって、エレベーターに乗車している。

 一人きりのエレベーターの中。自分の自意識に思いを巡らせていると、以前通っていた美容室での出来事がフラッシュバックした。 私は、美容室という場所が苦手だ。どんな髪型にしたいか伝えるという事は、自分が人からどう見られたいかを間接的に発表していることと同義な気がして、途端に恥かしさを覚える。目の前に置かれる雑誌も、どのページを読んでいるかを見られることで、何に興味を持っているかを知られ、心を見透かされたような気持ちになってしまうので手が出せない。

 一度、間を埋めるために美容師との会話に挑んだことがある。家庭に持ち込みたくない仕事の愚痴や、その逆、会社で誰に話すでもない家庭の不満など、家族にも同僚にも属さない第三者に話すという事が、試してみると意外にも心地よかった。昔、テレビで見た、滝壺のない滝の映像が頭に浮かんだ。会話がどこにもとどまらず、口から発した瞬間に、霧のように消えていく感覚に、後腐れのなさ感じたのだと思う。しかし、その心地よさも束の間、ある日、会計をしているところでレジ越しに突然、
  
「今週末、時間があれば新しくできたカレー屋に行ってみませんか。」

と、誘われた。ここ最近、カレーを食べることにハマっていた私は、美味しかった店を雑談の一つとして報告をしていたからだと思った。しかし、私は美味しいカレーを誰かと食べたい訳ではない。カレーが美味しい店があった、という話しを誰かに聞いてもらいたいだけだった。何気なくしていた雑談も、相手からしたら、私が遠回しに誘っていると思われていたかと思うと途端に恥ずかしくなった。私は咄嗟に、「すみません。今週末は予定があって。」と返すのが精一杯だった。「そうしたら、また今度にでも行きましょう。」という相手の明るく乾いた言葉を聞いたのが最後、私は、その美容室に通うことをやめた。

 この出来事以降、私が髪を切りに行く先は、もっぱら1,000円カットの店となった。その名も「カットファクトリー」。名前に「ファクトリー」と入っているとおり、工場の流れ作業のような手早いカットが売りの店だ。カットにかかる時間が短いため、美容師との会話がなくて気まずいと思う間もなく、店を後にすることができる。特に過去に起きた美容室での一件から、私には美容師との会話に対する恐怖心が芽生えていた。しかし、この「カットファクトリー」では、美容師との会話に対して頭と心を使う必要がない。髪を切られている間は、一人の人間というよりも、一体のマネキンになったような感覚になれる。この状況を今の私はとても心地よく感じている。唯一欠点を挙げるとすれば、決まった美容師ではなく、行った際に手が空いている美容師が担当となるため、仕上がりが毎回定まらず、日によっては、思わず首を傾げながら店を出ることもあるという点だろうか。しかし、その欠点を差し引いても、「会話の煩わしさがない」という点は、私にとって大きなメリットだ。 遠い未来、技術の進歩により、美容室に通わなくても済む時代が来ればいいなと妄想する。髪型だけを頭から取り外し、「ファクトリー」へ送り付け、カットしてもらった髪型を送り返してもらい、再び頭へ装着するのはどうだろう。だがこの方法だと、坊主頭のまま何日か過ごさなければならばいだろうか…。

 そんなことを考えていると、急に目の前の扉が開いた。私はそこで、フロアに到着したことに気づく。廊下では「誰にもすれ違いませんように」と願いながら、執務室に到着し、重い扉を開ける。静かに自席に座り、まるで昨日からずっと会社にいたかのような雰囲気を出す。

 8時30分の始業チャイム。すぐに会社員のスイッチを入れる。出勤前、毎朝感じる自意識のあれやこれやを、一旦なしとする。電話もメールも、同僚との会話も、仕事を成すための過程と考える事で、何とかこなしている。出勤前の自意識の塊が、私の本体だとしたら、自意識を封印した私は、もはや私という人間ではなく、一体のロボットのように感じることがある。相手から投げかけられる言葉を、自分の思考をなるべく介さず、蓄積されたパターンの中から、適切なものを選択して発する。これを繰り返し、気付けば17時15分の終業チャイムを聞いている。

 今日はこの後、所属する部内の飲み会がある。会場は会社から歩いて10分ほどの駅前にある居酒屋だ。18時開始のため、5分前に着くよう、17時45分に会社を出る。早く会場に着くことで、「飲み会を楽しみにしている奴」という目見られることと、遅く着くことで、「時間にルーズで失礼な奴」という目で見られ、周りからの視線を集めてしまうことの2つの恐怖心から、飲み会では特に、5分前行動を徹底するようにしている。こんな風に、ひとたび仕事を終えると、私の自意識はあっという間に復活する。

 私が到着すると、40代前半の先輩社員であるミサトさんと、出張先から直接来たという部長がすでに席について談笑をしていた。私は「お疲れ様です。」と挨拶をし、入り口近くの端の席に座った。それから少し遅れ、課長と、入社4年目の後輩の男の子、タイキ君が連れ立って到着し、この時点で18時を少し過ぎていた。しかし、参加予定のアヤちゃんの姿がまだ見えない。「竹下さん今日は欠席?」部長が、アヤちゃんが来るかどうかを、誰に聞くでもなく質問したところ、「ちょっと用事を足してから来るって言ってました。」とタイキ君が部長に告げた。「さすがアヤちゃん。入社してまだ二年目なのに大物の風格だなぁ。」とミサトさんが笑いながら棒読みで呟いた。「まぁじゃあ先に始めましょうか。」と課長が部長に促し、飲み会はアヤちゃん抜きで先に始めることとなった。

 飲み会の序盤、ミサトさんの息子さんが中学を卒業したという話題になった。それまでは休みの日も息子の部活の付き合いで忙しくしていたが、それも終わってしまうと、ミサトさんは、少し寂しそうに話した。「時間が出来たならさ、旦那以外の男とも遊んでやるくらいの勢いでさ、もっと自分磨きに時間をかけたりしてみたらいいよ。」と、部長は枝豆をつまみながら言った。部長なりの励ましの言葉なのだろうか。私には、何の配慮のかけらも無く聞こえた。無関係な私が、端の方の席で密かに怒りを感じていた一方、ミサトさんは、「確かに、旦那にも飽きてきたんで、タイキ君くらいの若い子と遊んでみようかな。」と大笑いしながら答えた。ミサトさんのこの発言も、倫理感を全く感じられないものだったが、この場で部長を満足させるための回答としては100点だと思った。案の定、ミサトさんのこの回答に部長もごきげんな様子だった。

 「シホちゃんはさ、旦那さんはいるけど子どもはいないでしょう。休みの日はどうしてるの。」と急に私に話題を振ってきた。皆が私に注目する中、「なんだかんだ寝だめして、掃除やら洗濯やらしたら、休みの日なんてあっという間に終わってしまいますね。」と、私は笑顔を顔面に貼り付けながら、当たり障りのない回答をした。部長も「まぁ寝られるときにたくさん寝ておいた方がいいよ。歳とると寝るのもしんどくなるからさぁ。」と言い、会話を深堀りされることをなんとか回避できた。

 「休みの日と言ったら、カオリさんはどんな風に過ごしてるんでしょうね。」と課長が何気なく言った。カオリさんというのは40代後半の先輩社員だ。物静かで、社内で他の社員と談笑している姿を見たことはなく、飲み会も毎回欠席している。「独身で、お父さんお母さんもまだ元気みたいだから介護の必要はないし、自分の時間はたくさんありそうですよね。」とミサトさんが言った。「なんか友達は少なそうですよね、誰も知らない本とか映画とか観てそう。」とタイキ君が続け、「いやいや。ああいう人に限って夜な夜な男の人と遊び歩いたりしてそうじゃないか。」と部長が最後にニヤニヤしながら言った。こんな時、私はなるべく気配を消しつつ、ただ話しは聞いてますよ、という雰囲気を出すことに徹する。私が部内の飲み会に参加し続ける理由はここにある。いわゆる欠席裁判。これを私は恐れている。何一つ共感する事ができない話題で溢れかえる飲み会に参加して時間を過ごすことと、欠席した飲み会で、自分のあることないことを言われているのではないかという妄想に一人耐え続ける時間を過ごすことを天秤に掛けた時、私はいつも前者の苦痛を取ってしまう。

 「遅れてすみませーん。」個室の襖がそっと開き、遅れてきたアヤちゃんが入ってきた。すでに飲み会開始から30分ほど経過していたが、既にいい感じに出来上がっていた部長は「おーアヤちゃんやっと来た。待ってたよ。」と赤ら顔のごきげんで迎え入れた。ミサトさんは「いらっしゃい。待ってたよ。」と明るい声は出しているが、顔をアヤちゃんの方に向ける気はなさそうだった。そんなミサトさんにもう一度「ミサトさん遅れてすみません。」と声を掛けたアヤちゃんは、そのまま私の真向かいに座った。「シホさんすみません。飲み物のメニュー見せてもらってもいいですか?」私は「とりあえず生で」の一言を予想していたので、「メニューを見せて欲しい」というアヤちゃんのお願いにとっさに反応することができず、少しもたつきながらメニューを渡した。アヤちゃんと早く乾杯をして飲み会を仕切り直したいという周りの無言の圧力を感じ、一人勝手に胃をキリキリさせている私 。そんな雰囲気は微塵も感じてない様子で、アヤちゃんはメニューを端から端までゆっくり眺めている。アヤちゃんは目鼻立ちが整っており、まつ毛も長く、派手ではないがそれに似合うメイクと可愛いハート模様のネイルをしている。この微妙な時間の空気に、私の胃はキリキリしているものの、メニューを眺めるアヤちゃんがあまりにも綺麗なので、まぁもう少しこの時間が続いてもいいかとさえ思えてくる。「メニューありがとうございます。」と笑顔で言われ、アヤちゃんは通りかかった店員にこれまた笑顔で「ライムサワーを1つお願いします。」と注文した。

 「今、皆で休みの日は何してるっていう話しになって、アヤちゃんはどうしてるの?」と、タイキ君がアヤちゃんに話しを振った。「そうですね。私は、ネイル行ったりジム行ったり、友達とランチとか洋服買いに行ったりですかね。」「彼氏とデートに行ったりしないの?」部長がニヤニヤした顔でアヤちゃんに質問した。「彼氏は今はいないですね。なので、お金とか時間とかは、ほとんど自分のために使ってます。」微笑みながらアヤちゃんは返した。「でもそうやってどんどん時間とお金をかけて可愛くなっていったら、男の方がアヤちゃんのこと放っとかないと思うよ。」部長の言葉に対し、アヤちゃんは、「いや、でも私、男の人にモテたくて色々やってる訳ではないんですよ。ただ、好きなお洋服着て、可愛いネイルとかしたら自分のテンションが上がるので。誰かのためっていうよりも、自分のためにしてるんですよ。私の周りもそういう友達多くて、今は男の人のことを意識してするおしゃれよりも、自分のためにおしゃれしてる子が多いと思いますよ。」柔らかな声色と表情でそう言い終わったタイミングで、アヤちゃんが注文したライムサワーが届いた。

 「じゃあ、改めて乾杯しますか。」課長が、ここまでの話しの流れを断ち切るようにして乾杯の音頭をとった。私は、課長の音頭に合わせグラスを掲げながらも、ミサトさんがどんな表情をしているか気になって仕方がなかった。ミサトさんは、グラスを掲げながらも、伏し目がちに、少し蔑んだ笑みを浮かべているように見えた。ミサトさんにしてみたら、アヤちゃんのような存在は、目の上のたんこぶのようなものだと思う。男性の割合が多い会社で、自分の居場所を守るために、ミサトさんはこれまで色々なことを押し殺して過ごしてきたのだろうと感じることがある。そんなミサトさんから見たら、会社で自由に振る舞いながらも、一つのキャラクターとして存在を認められているアヤちゃんに、良い印象を抱けないというのも分かる。

 しかし私は、ミサトさんとは逆に、アヤちゃんのことを好意的に思っている。私の性格上、アヤちゃんみたいに自由に振る舞えない分、あんな風に生きられたら、という憧れのような思いが大きくある。現に、私は部長の発言に対して、これまで何度も異を唱えたいと思ってはいる。しかし、自分に対する自信の無さや、異を唱えた瞬間に向けられるであろう、周りからの冷ややかな視線が、私の邪魔をしている。私が思っていたことを、アヤちゃんが代弁してくれた時には胸がスッとするし、アヤちゃんのおしゃれへのこだわりが、周囲対する戦闘態勢の証であるように感じる瞬間があり、そんな時、勝手に勇気をもらっている自分がいる。アヤちゃんの人生に、私という存在は1ミリも影響を及ぼしていないが、私の人生に、アヤちゃんという存在はそれなりの影響を及ぼしている。

 飲み会は2時間ちょっとで終了となった。私は、バスで帰ろうとバス停に向かって歩き出そうとしていたところ、「シホさん帰り電車ですか?もしだったら駅まで一緒に行きません?」と、アヤちゃんから声をかけられた。突然のことに私は、「駅の手前のバス停からバスに乗ろうと思ってて。」と言った瞬間、すぐに後悔した。お酒を飲んだせいかうまく頭が回らず、私は正直に言ってしまったが、「コンビニに寄ってから帰る。」とか、「忘れものをしたから一回会社に戻る。」とか、アヤちゃんと一緒に帰るという選択肢を避けるための言い訳はいくらでもできたはずだと自分を責めた。しかし、時すでに遅し、「同じ方向なんで途中まで一緒に行きましょう!」と満面の笑みでアヤちゃんから誘われてしまった。今の私には、この局面からさらに頭を働かせて、アヤちゃんの誘いを断る方法をひねり出す気力も体力も残念ながら残されていなかった。私は、仕方なく流れに身を任せることにした。

 居酒屋から駅までは歩いて5分程度の距離だ。バス停は駅のすぐに手前なので、アヤちゃんと歩く時間は4分程度だろうか。4分、一体どうやって間を持たせようかと考えていたところ、「今日は遅れてきてしまってすみません。」と、アヤちゃんが眉間に皺を寄せながら、ほんとうに申し訳なさそうな顔で私に向かって言った。その姿を見た私は、その昔、後輩であるタイキ君が、幹事ながら飲み会に遅れてきたことがあり、その際の謝罪があまりにもヘラヘラとしていたため、上司から怒られていたことをふと思い出し、「そんなに謝らなくて大丈夫だよ。」と声をかけた。「ただ、アヤちゃんが最初来てなくて、ミサトさんが心配してたみたいだから、今度もし遅れそうだったら、ミサトさんにも一言声かけておいた方がいいかも。」と、私が言うとアヤちゃんは、「そうだったんですね。今度から気をつけます!」と、これまた申し訳なさそうに言った。私は、アヤちゃんに対し説教のような話しをしてしまったことを申し訳なく思った。しかし、アヤちゃんがミサトさんによく思われていない姿を見るのも心苦しかった。私からアヤちゃんへせめてもの助言のつもりだったが、私のこの発言は、アヤちゃんとミサトさんの間に流れている険悪な空気に耐えられないから言ってしまっただけで、随分と身勝手な説教だ。その実、当の本人たちであるアヤちゃんとミサトさんは、互いについて特に何も気にしていないのではないかと思うと、さっきのアヤちゃんへの余計な一言を全て撤回したくなった。

 そんな風に、私は頭の中で一人激しく後悔していると、「ミサトさんはほんとうにすごいですよね。お子さんもいるのにフルタイムで働いて、尊敬です。」とアヤちゃんがしみじみと言った。このアヤちゃんの発言を聞いて、少なくともアヤちゃんは、ミサトさんのことを悪く思っていないと知り、アヤちゃんとミサトさんの間の険悪な空気が少し薄まったような気がして安心した。そして、私もアヤちゃんのこの意見に同感だった。

 「男の人が多い会社で働くのって大変だよね。無神経に嫌なこと言われたり、されたりして。まぁ向こうには加害者意識なんて全然ないと思うんだけど。私なんか昔、右手にあるこの居酒屋でさ、前の上司に酔っぱらった勢いで抱きつかれたことあって、今もこの店の前通ると、思い出して吐き気がするんだよね。」私は、ここまで一気に喋ってはっとした。アヤちゃんとの会話の間を無理に持たせようとして、余計な話しをしてしまったことをすぐに後悔した。「え!この店でですか!」アヤちゃんはわざわざ歩みを止めて、店を指差し私に確認した。「うん。そう、この店」私はかつての事件現場である店をあまり直視したくなかったため、必然的にアヤちゃん方を向いてそう答えざるをえなかった。アヤちゃんはただでさえ大きな瞳をさらに一回り大きくさせて、

「私この店燃やします!」
 
と、真顔で私に向かって言った。アヤちゃんの突然の発言に、私は「えっ?」と聞き返すことしかできなかった。「シホさんがここ通る度にそんな辛い思いしてるなら、私がこの店を燃やして無くします!」アヤちゃんの真っ直ぐな視線と「店を燃やす」という衝撃的なその言葉が、気持ちいいほど私に刺さり、思わず笑ってしまった。「シホさんは今みたいにいつもニコニコして、だからみんな何でも許されると思ってるんですよ。」アヤちゃんは、いつもヘラヘラしている私を含む、ありとあらゆる人に対して怒っていた。しかし、今私が笑ったのは、アヤちゃんとの間を持たせるための作り笑いではない。アヤちゃんの発言があまりにも愉快で、自然と笑ってしまった。しかし、その説明をアヤちゃんにするのも面倒くさかった。それ以上に、私のために「店を燃やす」という発言をした、アヤちゃんの純粋な優しさを受け止めるのに精一杯だった。

 そんな風に歩いていると、いつの間にか駅の手前のバス停に到着していた。「そしたら私はここで。」と、アヤちゃんに向かって言うと、アヤちゃんは突然私の手を両手で包み込み、「何かまた会社で嫌なこととかあったら言ってください!相談に乗るんで!」と元気よく言った。冷たく、ゴツゴツと骨ばった私の手とは違い、アヤちゃんの手は温かく、同じ人間とは思えないほど柔らかかった。「うん。ありがとう。アヤちゃんも何かあったらいつでも遠慮なく言ってね。」と、私は最後にアヤちゃんに少しだけ先輩風を吹かせてみた。しかし、そんなそよ風のような先輩風をアヤちゃんは感じることもなく、私に笑顔で小さく手を振ったあと、ヒールの高い靴で颯爽と風を切りながら、アヤちゃんは駅の方へ歩いて行った。

 アヤちゃんと別れてすぐにバスが到着した。私はくたびれたスニーカーを履いた足を引きずりながらバスに乗り込んだ。バスの一番後ろの窓側の席に座り、遠ざかるアヤちゃんの背中を見ながら、私は静かに目を閉じた。


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