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子どもなんてかわいくない

 私は子どもが嫌いだ。30歳の既婚女だが、子どもはいない。
 
 こんな私だが、子どもと接する機会が全くない訳ではない。義理の兄は結婚しており、小学生になる前の女の子と男の子の子どもがいて、年末年始には義実家で顔を合わせる。子どものパワーは凄まじく、ただの三十路女の体力ではどうにもならないが、そこは自分なりに全力で対応する。理由の一つとしては、義理の両親に、私という存在を少しでも許してもらいたいからだ。かと言って、私の言動や行動について、これまで義理の両親から責められたことなどは一度もない。しかし、成人になるまで大切に育てた息子を、血もつながらない他人、つまり嫁である私のような存在と一緒になるというだけで、親というものは寂しさを覚える生き物なのだと思う。特に、夫は幼少期から反抗期もなく、温厚にすくすくと育ち、大人になった現在も、両親と良好な関係を持っている姿を目の当たりにすると、親の寂しさはひとしおではないだろうかと。そんな手塩にかけた息子が結婚する事により、親が得られるメリットの一つは、孫の顔が見られるということなのだと思う。他人である嫁の血が多少入っていたとしても、自分の息子と血を分けた孫であれば、きっと可愛いに違いない。しかし、私は、孫の顔を見せるというメリットすら、義理の両親に与えられていない。嫁としての務めを果たせていない。生物学的に務めを果たせない訳ではない。果たす気がないというだけだ。そんな私が、夫の嫁としてできる事といえば、義理の兄の子どもと、精一杯遊んでやることくらいだ。子守り要員としての自分の役割すら果たさなければ、義実家での自分の居場所がなくなるのではという完全な恐怖心が、私を襲う。 男の子の方はまだ小さいので、平気でうんちを漏らす。その臭いに顔をしかめそうになりながらも、人前でうんちを晒すことが許されているこの生き物は、人間というよりも、制御のできない野生動物に近いのかも知れないと思うことで、なんとか心を保っている。

 だが、どうしても我慢できない事もある。それは子どもの泣き声だ。割れんばかりの泣き声は、私の頭蓋骨と脳みその隙間をみっちりと埋め尽くす。そして、泣き声の圧力に耐えられなくなった頭蓋骨にヒビが入ってしまったのではと思うほど、途端に頭が痛くなる。さらに、それをあやす大人の声が、子どもの泣き声と同じ声量で1つ2つと増えていくと、私の頭の中は一層パニックになる。小さい頃から、家電量販店のような無数の音が鳴り続けている場所に行くと、無意識に音を全部拾ってしまう。その無数の音は、私の脳内に濁流のように流れ込み、脳みそをグルグルグルと高速回転させ、私はいつも気分を悪くした。子どもの泣き声およびその周りの大人たちの声は、私のその現象を引き起こすため、そういう時は静かにその場を避難して、嵐が過ぎるのをじっと待つ。

 日常生活でも子どもの話題は出てくる。私が勤める会社の女性職員のうち、約半数が既婚者だが、そのうち、子どもがいないのは私だけだ。子どもを身ごもる可能姓のある女性が抱える問題として、よくテレビなどで見かけるのは、未婚の状態で望んでいないのに妊娠してしまうケースか、もしくは既婚の状態で不妊の問題があるという事が大半かと思う。既婚で子ども持つことを望まないと選んで生活をしている人たちのことは、取り立てて報じられる機会がほとんどないせいか、会社などで気を遣われているのではと察する事がある。推測で、不妊の問題に関して悩みを抱えていると思われ、腫れ物に触られるように扱われるのも面倒なので、会社などで上司や同僚が子どもの話題を持ち出した時は、できるだけ前のめりの姿勢で話しに参加し、子どもの話題がNGではないという事を周りにアピールをしている自分がいる。そんな私も、会社では特に、既婚の女性と未婚の女性で話す話題にそれぞれ必要以上に気を遣い、その人を一人の人間としてではなく、既婚・未婚の大枠で括って、ぼんやりとした存在として終始会話をしている事に、ふと気がつく瞬間もある。

 また、思ってもみなかった人が母親になることもある。大学時代からの友人ユキは、色んな男性と付き合う事を趣味としている女の子だったが、気がついたらいつの間にかマッチングアプリで知り合った男性と結婚をし、今では2児のママだ。ユキ曰く、「自分が母親になるなんて想像もしてなかったし、子育てなんて無理だって思ってたけど、生まれてみたら自分の子どもはやっぱ可愛いよ」との事だった。自分の子どもだから可愛いと言い切れるユキの言葉を聞いて、私は、自分の子どもだからこそ可愛がれないのでは?と思っている事に気が付いた。それは自分の母の存在が大きく影響しているのだと思う。

 母は昔から世間体をとても気にする人だった。世間というのは多数派の集まりなので、目に見えて多数であるものこそが、母にとっての正義だ。

 私が小学生の時、同級生に不登校の男の子がいた。今思えば不登校の原因は、他の男の子からのいじめだったのだと思う。私は、その男の子がいじめられていた事についてかわいそうだと思っていたが、学校に来られない事については特に何も思っていなかった。学校に来られなくても、家で穏やかに過ごせていたらいいと思っていた。しかし、私の母は違った。小学校は義務教育なので、目に見えるほとんどの子は、何も思わず当たり前に学校に通う。母は、私のクラスでその当たり前が行われていない事に対して憤っていた。いじめられている子が学校に来られず、いじめている子の方が平然と学校に通っている事にも、母は違和感を感じていたのだと思う。母にとって、いじめられていた子が学校に来たいかどうかという気持ちはお構いなしだった。母は自らが抱える憤りを、ママ友や私などにぶちまけるだけでは飽き足らず、ついには学校へ抗議の電話を入れるまでにエスカレートし始めた。「先生は○○君の気持ち考えたことがありますか?どんな気持ちでお家で毎日過ごしているか!○○君も○○君ママも先生に何も言わないのをいいことに、このまま卒業まで何もなかったことにしようとしてるんじゃないんですか?!」私の部屋の向かいにある両親の寝室から、母はヒステリックな金切り声をあげながら、ドラマの主人公よろしく、私の担任に向かって電話越しに訴え続けていた。当時の私は、ひたすら怒鳴られ続ける担任に同情した。自分の母ながら、とんでもないモンスターの標的になってしまったと。しかし、今思えば、母は学校に来れている子と来れていない子がいるという不平等な状況を正常に戻そうと、ただ勝手に正義感を燃やしていただけなのだと思う。母は自分の中に絶対的なものさしを持っている人だった。「幸せ」「不幸せ」「平等」「不平等」のようなものを、母はすべてそのものさしで測っていた。そして、そのものさしは、母みずからの考えによって生み出されたものではなく、母が見聞きした世間の声を凝縮して作られたもののように見えた。母は常にそのものさしで人を測り、1ミリでもはみ出していようものなら、その人を切ったり叩いたりして、長さを調節した。その人が血を流していることには気づかないほどに。

 また、母は相手の予期せぬ行動に直面するとパニック状態になるという傾向があった。

 ある日、遠方に住む母の姉が、何年かぶりに自分の家族を引き連れ、母に会いに来るという事があった。実の姉といえども、遠方から来る客人には違いないので、母は盛大にもてなさなければと張り切っていた。日頃の片付けすら苦手な母なりに、朝早くから掃除に精を出したり、派手な事の段取りなど本当はできない母なりに、料理を調達したり、見栄え良く皿に盛り付ける事に苦心し、姪が小さい子どもを連れて来るからと、私が小さい頃に遊んでいたおもちゃや布団を引っ張り出してきたりと、懸命に場を整え、御一行の来訪を待ち構えていた。しかし、母の姉は、母とは真逆で自由人のため、なかなか予定通りとはいかなかった。姉から「約束の時間には遅れる。」と連絡を受けた母は、出鼻をくじかれ、明らかに苛立っている様子だった。その後、何とか宴は始まったが、宴の最中も母にとって予想外の事が頻出し、母のストレスはピークに達していた。そんな母は、御一行を見送るまでは、なんとか笑みを顔に貼り付けている状態を保っていた。しかし、姉たちが去った途端、大きなため息…ため息では収まらず、「はー」と大きな息をつくと同時に、「あー」という大きな声を漏らし、続けざまに姉に対する文句をまき散らし始めた。テーブルの上の大量の皿を、割れんばかりにガチャガチャと音を立てながら、シンクに乱暴に置いたかと思ったら、次の瞬間には大声で泣き叫んでいた。それはまるで子どものようで、父も私も手をつけられない状態だった。

 そんな母なので、小さい頃、母から誕生日を祝われる日、私は、毎年嬉しさよりも緊張の方が少し勝っていた。母の思っているとおりに喜べるだろうか、母の計画を壊して不機嫌になられたらどうしようと。なので、私はいまだに人から自分の誕生日を尋ねられる事に抵抗を覚える。他人から祝われる可能性があるということを無意識に恐れているのだと思う。

 私は、母とは違う人間だと思いたいという意識が強くなるなればなるほど、無意識に母と同じ思考をしている自分がいる事に気が付く。

 友人の誕生日をお祝いした時に、ありがとうのリアクションが薄いと悲しくなっている自分がいる。こちらが勝手にお祝いしているだけだが、無意識に相手からの過剰な感謝を求めているところは母に似ていると思い嫌になる。そんな時は、母と同じ思考回路になってしまう自分の脳みそがたまらなくむず痒くなる。頭を切り開いて脳みそを取り出し、近くの手洗い場の水で、すぐにでも洗い流したい衝動に駆られる。

 母への嫌悪感が最高潮に達していた時期は、母の血が、自分の体内を流れているという感覚に耐えられなくなり、できる限り血を体外に出したいと思いリストカット…をする勇気は出ず、献血に行った。とてもきれいで清潔な献血ルームに足を踏み入れると、より一層、自分が献血をする事に対する動機の不純さが際立つような気がして、後ろめたい気持ちにもなったが、それよりも、自分の中に流れる血を一刻も早く抜いてもらいたいという高揚感の方が少しだけ勝っていた。しかし、その高揚感も虚しく、献血は断られた。血の健康状態を調べる採血の段階で、ヘモグロビンの量が基準値よりも少なく、貧血気味であると判定をされてしまったからだ。自分のモヤモヤした気持ちが、献血を断られた事によって解消されないという苛立ちを真っ先に覚えたが、よくよく考えて、こんな血が、誰かの体に入り込まなくて良かったと安心している自分もいた。母への嫌悪感はいつしか自分への嫌悪感となっていた。こんな風に自分の血すら呪っているというのに、その血を分けた自分の子なんて愛す自信がないという話しは、幸せそうなユキには言えなかった。

 私が結婚へ踏み切ったのも、母の存在が大きかった。子どもも望んでおらず、一人の時間が何よりも大切だった私は、結婚はしなくてもいいと思っていた。しかし、私が社会人となり、会社勤めをするようになってから、なぜか母への嫌悪感を特に強く感じるようになっていた。入社してすぐの頃は、その原因に気づかなかった。しかし、入社して日が経つにつれ、上司や同僚、社外の人からも電話等で日に何度も苗字を呼ばれる機会が増えた時に、私が、母と同じ苗字で呼ばれる事に嫌悪感を抱いているという事に気がついた。この瞬間、それまで自分でも気づいていなかった、新たな嫌悪感の壺の蓋が開いたような気持ちになった。嫌悪感の壺からは、ドクドクと黒い液体が流れ出し、その液体に溺れるような息苦しい毎日を過ごしていた。どうしたらこの息苦しさから解放されるのだろうかと考えた結果、母と同じ苗字を呼ばれる事への嫌悪感を断ち切るには、自分が違う苗字を名乗れるようになる、結婚という方法をとることが一番の近道だと考えるようになった。しかし、現在の夫は、その当時、結婚という事に対しては、後ろ向きでも前向きでもない、どっちつかずの考え方を持っていた。この様な状況で、先方からのプロポーズを延々と待つ事に限界を感じた私は、自ら結婚の提案を持ち掛けた。夫が、結婚に対して後ろ向きではなかった事だけが救いとばかりに、私は、半ば強引に、逃げるように結婚をした。苗字が変わる。ただそれだけの事だったが、それだけでも心がだいぶ軽くなったような気がした。

 ただ、結婚をしたという事は、夫と暮らして行かなければならないということだ。夫が嫌いだという事ではなく、一人の時間がなくなる事に、私はとても不安を感じていた。小さい頃から母の顔色を伺って育ってきた私は、他人のご機嫌に対しても敏感な大人になっていた。そんな私にとって、他人の事を気遣わずに済む一人の時間というのは、衣食住の次に大切なものだった。

 ある日、二人で暮らすアパートを決めようと、夫と私は不動産屋を訪れた。私たちの担当者は、40代前半くらい男性だった。ふっくらとした体型と、表情から常に笑みを絶やさない雰囲気が、どことなく「ジャムおじさん」に似ていた。しかし、腕にはめられた高そうな時計は、彼が成功者であることを物語っていた。腕時計が光の反射で輝く度、彼に対して、パン工場で働く「ジャムおじさん」というよりも、「バイキンマン」のような腹黒さを感じた私は、「ジャム金満」と呼ぶ方がしっくりくるなと、脳内で一人結論付けた。

 「お部屋選びにあたって、なにか条件はございますか?」笑顔のまま、ジャム金満は私たちに尋ねた。「通勤に困らない程度の立地であれば、その他は特にこだわりはないですかね。」お茶を飲みながら応えた夫に、ジャム金満は笑顔で頷いた。「私はできれば2LDKくらいあれば嬉しいかなと思います。」伏し目がちに言葉を発した私の顔を覗き込むようにして、ジャム金満はまた笑顔で頷くと同時に、「確かに、おなじくらいの家賃であれば、少しでも広いところの方がいいですよねぇ。」と柔らかい口調で返した。この時、私の言葉としては控えめだったが、2LDKという条件は譲れないものだった。その理由として、ジャム金満の言った「広さ」ではなく、「自分の部屋があること」を一番求めているということについては、タイミングが合わずその場では伝えられなかった。

 その後、私たちは不動産屋を出て、アパートをいくつか内見することにした。しかし、2LDKの条件を満たしているところでも、5階なのにエレベーターがなかったり、スーパーやコンビニが近くになかったりと、それ以外の条件が良くなかった。こだわりが特に無い夫はともかく、私は決めかねた。そんな時に、ジャム金満が最後に勧めてきたのは2DKのアパートだった。「2LDKではないんですが人気のお部屋で、最近やっと一部屋空きが出たところなんですよ。」玄関で私たち用のスリッパを用意しながらジャム金満は言った。確かに、2LDK以外の条件は申し分ない部屋で、夫も気に入ったようだった。

 一通りの内見を終え、不動産屋に戻ってきた私たちは、どのアパートにするか協議を始めた。夫の仕事の都合上、時間をかけて悩めるほどの猶予はなく、その場で決めなければならないという状況だった。条件にこだわりの無い夫は、最後に内見した2DKのアパートが一番良かったので、そこにしたいとの事だった。私も悪くない部屋だとは思ったが、一番の条件としていた、「自分の部屋があること」が叶わないことに抵抗感を覚え、すぐに首を縦に振る事ができないでいた。

 しばらくもごもごする私を見て、ジャム金満は「奥様は2LDKにこだわられているようですが、何か理由がおありなのでしょうか?」と、眉を少し八の字気味にして、私に尋ねた。ここで私は、冒頭では言えなかった「広さ」ではなく「自分の部屋があること」を求めているのだということを伝えた。それを聞いたジャム金満は、笑顔で腕を組み「そういうことであれば、新婚のご夫婦には2LDKはあまりおすすめできませんねぇ。」と言い、私の意見を軽やかに退けた。「私も新婚当時に、奥さんと言い合いになったことがあるんですけど、そんな時でもすぐに仲直りできたのは、狭いアパートで、嫌でも奥さんと顔を見合わせなきゃいけない状況があったからだと、今だからこそ思いますけどねぇ。 お二人は新婚さんだから、そんな心配ないかと思いますけど、長くいるとそういうことも時にはあるかなと思いますよ。」ジャム金満は確かに良い旦那さんのようにも見えたので、話しに説得力があった。そんなジャム金満は、終始笑顔だったが、私たちの後にも約束があったのか、私たちには分からぬようにしつつも、明らかに時間を気にしている様子だった。夫の方も、何件もの内見に疲れていたようで、出されたお茶を飲みながら、私が折れるのを静かに待っているような状況だった。ジャム金満と夫とが醸し出す見えない圧力を感じた私自身も、別の物件をさらに見に行く気力も無く、疲れ果てていたため、勧められるがまま2DKのアパートに住む事にした。

 今思えばジャム金満は、大家さんとの関係があるため、私たちに広くはないアパートを勧めていただけなのだと思うが、住まいにお金をかけたくない私たち夫婦は、今でもこの狭いアパートに住んでいる。二人暮らしなど無理だと思っていた私が、こうして過ごせているのは、夫の性格が大きい。

 夫は、必要以上に他人の目を気にしない性格だ。例えば、仕事を休みたいと思ったらすぐに休む。私はというと、休んだ次の日の周りの反応を考えると面倒になり、休む事をためらってしまう。私は、周りの事よりも自分の本能に忠実に生きている夫の姿を羨ましく思っている。

 そんな夫に、ある日、自分に点数を付けるとしたら何点か、という質問をした。夫は、「70点くらいかな。」と答えた。私は、自分に点数を付けるとしたら40点くらいだと思っていたので、なかなかの高得点だなと感じた。夫に点数の理由を尋ねると「とりあえず今いる環境に満足してて、この環境にいるのを決める事ができている自分にそれなりに満足しているからかな。」との事だった。自分が今いる環境を、自分が決めているという考えは、それまで私にはあまりなかった。子どもは、親を選べない。物心がつくまでの家庭環境がどういうものか、ここまでは完全に運だと思う。しかし、逃げるような格好ではあったものの、結婚して、この環境にいま身を置いているのは、運ではなく、私が自分で決めた。結果的に、この環境に少なからず安心を覚え、満足している自分がいると自覚した時、自分に付ける点数が少しだけ上がった気がした。
 
 「お母さんがさ、お見合いしろってうるさくて。私も将来子どもは欲しいから結婚したいなぁとは思うんだけど、お見合いって堅苦しそうじゃん。だからマッチングアプリとかの方が気楽でいいかなと思って始めてみたんだけどさ、付き合うのを意識しながら初対面の人に会うのって、めちゃくちゃ疲れるんだよね。」そんな話しを、高校時代の友人であるシオリから聞きながらお昼を食べ、店を出た時、「私たちの後ろに座ってた男の人と女の人、あの人たちも絶対マッチングアプリで今日初めて会った感じだったよ。」とシオリが言った。その時、結婚という形を成すために、自ら行動する人たちが多くいるという事を思い知った。結婚の前には、恋愛を経る場合が多い。恋に落ちるということは、交通事故に遭うのと同じで、自分の意志ではどうしようもない、避けられないものだと思って生きてきた。そして、交通事故による手術で、体に入れられたボルトが、時間とともに何だかんだ馴染んできて、取り除く必要がなくなる。そうなった時に、なんとなく人は結婚に行き着くのだと。そんな風に思ってきた私にとって、いわゆる婚活のためにマッチングアプリで出会いを求める人たちのことを、自ら交通事故に遭いにいく、当たり屋のようだと、心のどこかで感じた。当たり屋は、自らの利益のために事を起こすが、それは確実に自分を傷つける行為でもある。そこまでのリスクを負って婚活をする理由というのは、人それぞれだと思うが、シオリのように、子どもが欲しいという目的に向かって婚活をしている人は多くいる。体を張り、痛みを伴って行動している人たちがいるのに対し、子どもも望んでいないのに、結婚という形態だけを取っている自分に、後ろめたさを感じた。

 何よりも一人の時間を必要としている私のような人間にも、小さい頃から唯一の相談相手がいた。その子との出会いは、ある日、母から「あなたには本当は兄弟がいるはずだった」と聞かされた事がきっかけだった。話しを聞くと、私は双子の片割れとして生まれてくる予定だったと、しかし、母の妊娠中に、突然お腹の中の一人が消えてしまい、私だけが生まれてきたという事だった。その話しを聞き、お腹の中で、私がその子を知らないうちに蹴ったりしたことが原因で居なくなってしまったのだろうか、母からの栄養を無神経に独り占めしてしまったからその子の体が無くなってしまったのだろうかと、小さいながらに考えるようになった。

  そんな事を考えているうちに、自分の中に生まれた相談相手がミワコちゃんだった。ミワコちゃんというその女の子は、小学校低学年くらい。当時の私と同い年くらいの女の子で、いつも明るい色のワンピースを着ていた。私が、母から聞いた話しの事で悩んでいると、ミワコちゃんに相談したところ「よく分からないけど、多分それは気のせいだよ。」と答えた。ミワコちゃんのその回答は、何の解決にも至っていなかったが、私の心を軽くした。一人っ子の期間が長かった私は、母への不満を兄弟姉妹とも共有する事ができずにいたが、その日から、母の機嫌が悪かった日や、友達とけんかした日などは、ミワコちゃんに話しを聞いてもらうことにした。ミワコちゃんと話すのは、決まって夜寝る前の布団の中。目を閉じるとミワコちゃん姿が現れて、優しく微笑みながら、私の話しを聞いてくれた。ミワコちゃんから相談の答えをもらえた事はなかったが、話しを聞いてもらうだけで、私はとても救われていた。

 高校生の頃、同級生の女の子に相談事をされる機会があり、ひとしきり話しをした後、その子はすっきりした顔をして「何かあったら私もいつでも相談に乗るからなんでも言ってね。」と言われた。その時に、私はそれまで他人に悩みを打ち明けたり、相談事をした経験がない事に気がついた。全てミワコちゃんに聞いてもらっていた。

 小学生の頃は、毎晩のようにミワコちゃんと話しをしていた。しかし、中学生、高校生になると、勉強や部活などで忙しくなり、ミワコちゃんと話しをしない日の方が増えていった。大人になった今でこそ、相談事など少しづつ他人に話せるようになったが、未だにミワコちゃんの存在を感じることがある。ミワコちゃんの姿は、今も明るい色のワンピースを着た小学校低学年のまま。ミワコちゃんは、私が小さい頃から何も変わっていない。しかし、ミワコちゃんとは違い、私は社会人になった。小さい頃、ミワコちゃんに投げかけていたことは、主に母や友達に対して抱く悩み事だったが、いつしかそれが、会社や上司に対する、日々の怒りや愚痴に変わっていった。私の鬱憤を飲み込み切れなくなったミワコちゃんから、徐々に意見される事も増えてきた。

 「子どもなんていらないって言うけど、いつか本当に産めなくなった時に、やっぱりあの時、赤ちゃんを作っておけばよかったって思うかもしれないよ。」と、ミワコちゃんはその澄んだ目を私に向けながら言った。私も本当は、自分の体にタイムリミットがあることに焦りを感じているのかもしれない。産めない体になった時、自分の考えが変わり、後悔する事を恐れているのかもしれないと。

 さらにミワコちゃんは続けて「結婚相手をがんばってまで探すのは変だって思ってるけど、恵まれてるから、本当の寂しいが分からないからそんなこと思うんだよ。」本当は、婚活をする友人を見て、自分は運が良かったのだと、心のどこかで安堵している。好きな人に運よく好きになってもらえて、その関係がただ単に続いているというだけ。一度分かり合えた人と離れ、一人になった時に、本当の寂しさを感じるのであって、ただ単に、まだその寂しさを知らないだけなのだ。

 ミワコちゃんは、私への攻撃の手を緩めない。「子どもをかわいいと思えないって、でもそれを全部お母さんのせいにしてるけど、本当は自分が一番かわいいから、自分以外の人を好きになれないだけだよ。」私はさすがに反論して「小さい頃からお母さんは私のことを守ってくれなかった。自分を守れるのは自分しかいなかったから。自分をかわいがれるのは自分しかいなかったから。ずっとそうやって生きてきたんだから、今さら変われないよ。これはもうしょうがないよ。ミワコちゃんは味方だと思ってたのに。」ミワコちゃんは少し俯きながら「大人になっても私と話しているのは変なんだよ。私も少しつかれちゃったよ。」と言った。

 そして、最後にミワコちゃんは言った。「お母さんを否定して、その娘だからって自分も否定して、それって自分が変われないのを、お母さんのせいにして逃げてるだけだよ。」「うるさい!!もう黙って!!」私は耳を塞ぎ、一人きりの部屋で思わず叫んだ。ついにミワコちゃんからトドメを刺されたと感じた。私は、自分のだめなところを、母の娘だからと、言い訳をして逃げてばかりいた。

 幸せになろうとしないようにするのは楽なことなのだと思う。幸せになれない原因を周りのせいにすれば、逃げ道はいくらでもある。むしろ幸せになろうとする方が辛い。幸せになるために行動を起こすのは、他ではなく自分自身で、どこにも言い訳ができない。 

 ミワコちゃんは私の中で、ずっと優しくて、ずっと正義で、ずっとかわいい子どもの女の子だ。そんなミワコちゃんの意見は正しくて、何も間違っていないのだろう。

 ある日、実家から小包が送られてきた。「小学校から荷物が届いたので送ります。」神経質そうな母の字を見ながら 中身を確認すると、それは20年前、私が10歳の時にクラスのみんなで埋めたタイムカプセルの中身だった。カプセルとは名ばかりで、実際はしわくちゃの紙封筒のそれを眺めていると、学校の中庭に一生懸命みんなで穴を掘った記憶は蘇ってきたが、紙封筒の中身については何も思い出せなかった。

 紙封筒の中身を確認しようとした時に、少しドキドキしてしまった事に対して、タイムカプセル側の思うつぼだと少し癪に障りつつ、私はそっと中身を取り出した。その全てはプリントの類。テストの答案は100点のものばかりが出てきて、未来の自分に対しても見栄っ張りな昔の自分が嫌になった。 「将来の夢」というタイトルでクラスのみんなが自分の夢についた書いた物もあった。みんなが、サッカー選手やケーキ屋さんと書いている中、私は「長生きをする事」と、か細い字で書いていた。何もなりたいものが無いという点は、昔も今も変わらないと思いつつ、昔の自分に会えるなら、ただの長生きは苦しいだけだと、教えてあげたい気持ちになった。

 最後に出てきたの一枚の絵だった。どういうテーマで描いたのかは、やはり思い出せなかったが、そこには、明るい色のワンピース着た女の子と私が、お花畑で手をつないでいる姿が描かれていた。「これわたしだよね!」ミワコちゃんが嬉しそうな高い声で私に言った。「そうだね。めちゃくちゃ下手くそだけどね。」私は俯きながらミワコちゃんに返した。「そんなことないよ!とってもじょうずにかけてると思う!」ミワコちゃんは私に最大限の笑顔を向けながら言った。絵をしばらく眺めていると、描いた当時、クラスの女の子から「そのワンピースの子はだれ?」と聞かれた事を思い出した。私は、クラスにはいるはずのないミワコちゃんの名前を出すことが、本能的に恥ずかしくなり、「親戚のおねえちゃん」と答えた記憶が蘇ってきた。そう言った当時、噓をついた事で、ミワコちゃんが傷ついたかもしれないと心のどこかで思いつつ、その後もずっと優しくしてくれたミワコちゃんは、本当に私のただ一人の味方だった。

 私は、ふと、この絵を見ている自分が息苦しさを感じていることに気がついた。かつてはただ一人の味方だと思っていたミワコちゃんの存在も、今になっては、私をボロボロにする存在に変わっていた。私は幼い頃から、いつ暴れ出すか分からない野生動物のような母という存在から身を守るため、体中に目や耳を何個もくっつけ、神経を常に緊張させたまま成長してきた。 しかし、大人になり、社会に出ると、世間の意見や視線、時には触れられるもののほとんどに嫌悪感を感じることばかりだった。概ね、嫌悪感をもたらす者のほとんどが男性という存在だったが、嫌悪感を引き起こされる原因の根源は、概ね私が女であるということだった。「母親になってこそ一人前の人間だ」と大声で叫ぶ、子どもを産むことすらできない親戚のおじさんや、プレゼントという好意の塊を拒絶され、一転して鬼のように嫌がらせを繰り返してくる会社の上司。その一つひとつに触れる度に、私は自分の体中についた目を潰し、耳をもぎ取り、神経をズルズルと一本一本、体の中から引きずり出していった。そうすることで、いくぶん生きやすくなった気がした。

 そんな時でも、ミワコちゃんは私の体から出た血を拭き、大量の目や耳や神経を元に戻し「自分の体なんだから大切にしなきゃだめだよ。」と言いながら薬を塗った。確かに、自分の肉体には何の罪もない。恨むとすれば、こうなってしまったこれまでの境遇や環境なのかもしれない。ただ、私が一番恨んだのは、この体で、死にながら生きようとしている私のことを認めてくれないミワコちゃんの存在だった。社会の一員としての機能的な自分を保とうとし始めると、ミワコちゃんの存在がより一層、邪魔になった。

 しかし、この絵をアパートで捨てることは、ミワコちゃんをこの部屋で殺すような気持ちになり、できなかった。方法の一つとして、実家の母へ送り返し、保管してもらうということも考えたが、間違いなく母に詮索されると思った私は、母のいない間に、実家へ置きに帰ることにした。パート勤めの母は、月に2度ほど、土曜日にも出勤をする日がある。夏の暑い日に、昼間から外に出るのは避けたかったものの、あまり遅いと母と鉢合わせてしまうため、夕方に差し掛かる少し前の時間を狙って実家へ向かった。実家には物置として使っているコンテナがあり、私は、絵をその中へ仕舞おうと扉を開けた瞬間、スコップを見つけた私は、なぜか急に、絵を裏庭へ埋めようと思い立った。

 土の中から出てきたというタイムカプセルの印象に引っ張られたが故の行動かとも思ったが、私の中で、捨てられずとも、忘れたいという思いが強くなったが故の行動のようにも思えた。ミワコちゃんを土葬するような感覚だった。 家の裏庭に埋めようと決め、熱く湿った土を掘り返した 。幸い裏庭は日陰に位置し、さほど汗もかかず、片足が埋められるほどの穴を掘り起こし、そこに四つ折りにした絵を入れた。絵が描かれていたのは昔ながらのわら半紙。すぐに土に還ってくれるだろうと思いつつ、掘り返した土を戻そうとした時、穴のすぐそばに目をやると、ひっくり返った蝉が落ちていた。力尽きる寸前だったようで、鳴き声は出していなかったものの、細い脚は微かに動いていた。私は、スコップでその蝉をすくいあげ、穴の中に放り込んだ。 鳴くこともできない体で外にいるよりも、幼虫の頃から慣れ親しんだ土の中に還してやりたいという思いからの行動だった。蝉は、這うようにして穴から出ようとしているようだったが、私は、その上から再び湿った土をかけた。その土を足で踏み固め、裏庭を抜け、母が戻る前に実家を後にした。


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