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育ち⑤

重度身障者の一卵性双生児(妹)がいなくなって変わったこと。

今まで父と私の2人だった、休日のおでかけに母も時々一緒にくるようになった。
自分の家に友達を呼んで遊べるようになった。
母が、現代でいうママ友たちの井戸端会議に参加するようになった。
私がよく風邪をひくようになった。

反対に、変わらなかったこと。

母が私に「よい子」な言動を期待すること。
ひとりで公園に遊びに出されること。
ファミリアの青系の服を着せられること。
私が母に甘えられないこと。

「妹の分もがんばらないと」
何気なく発せられるこの言葉には絶大な威力があった。この言葉のとおり、私は何でもがんばった。
母の求めるように勉学に励み、毎日新聞を読み、本を読み、お手伝いをした。テレビは1日30分で切り上げ、毎日1時間ピアノの練習をした。門限を守り、早寝早起きをした。おもちゃもおやつも友達が欲しがれば譲り、虫歯になるからやめなさいと言われたジュースも飲まずに我慢した。

「元気なんだから、あなたできて当たり前」
当たり前だから、がんばっても褒めてもらえない。私的にはかなり無理してがんばって結果を出しても、それは母にとっては当たり前なのだ。

逆に、期待通りにできないことがあったら激しく責められた。私は運動神経が激しく鈍く、徒競走はビリ争い、ドッジボールの球は前に飛ばず、ダンスをすれば周りと動きがズレる。父と特訓したり、友達にバカにされながら自主練に励んでもできなくて、それでも母のがっかりする顔が見たくなくて必死に頑張ったけど、結局最後は「何でそんなこともできないの?」と責められるのだった。

私の視力が悪いこと、身長が低いことも母にとっては嫌でたまらないことだった。2000gない状態で産まれた未熟児だったのでどちらも仕方ないことなのだが。周りより劣っていると感じられることに嫌悪感を抱いてしまう母だった。
「眼鏡になったら嫌よ」
そんな無理な期待にも応えるべく、私は眼科中の視力検査表を丸暗記した。その時代の眼科はアナログなランドルト環とひらがなが並んだ紙の表か、プラスチックの電光板で視力を測っていたので、待ち時間に検査場所の近くに陣取り必死で憶えたのだ。一度憶えたら楽勝!それで4年間くらいは眼科での診察を乗り切った!目の状態と視力が違いすぎることに疑問を抱いた医師に大病院に送り込まれたところでジ・エンド。結局0.1も見えてなくてその場で眼鏡を処方されたという、今では笑える話。

がんばってもがんばっても褒められることはない。でも、できないことをゼロにすることはできない。
どうしたら母に認めてもらえるのだろう?
完璧じゃないと、私は妹よりも好きになってはもらえない。永遠にずっと、母の1番愛してる子供は妹。

思春期に差し掛かるころ、母との関係に違和感と自分が悩んでいることに気づき始めた。

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