ばっちゃんのこと①

うちから歩いて5分ほど離れたところに、父方の祖父母が住んでいた。祖母の家は借家の一軒家で、二階には父の妹と弟が暮らしていた。
身体が弱かった祖父は入退院を繰り返していて、その頃もずっと病院にいた。微かにある祖父との思い出は、笑顔の祖父と、膝に抱かれる私のモノクロのフォルム。しかしこれも、実際の記憶なのか、はたまた写真の画像を見た時の記憶なのか、それくらい祖父との思い出は数少ない消え入りそうなものであった。

祖母は足が不自由だった。小さな頃家の近所で遊んでいて、当時の交通手段であった馬車に轢かれたらしい。その事故で左足がほぼ使えなくなり、外出の際は松葉杖を使っていた。障害者手帳を持つ祖母の将来を憂いだ曽祖父は、幼い祖母に和裁を習わせた。外に働きに出なくてもご飯が食べていけるようにとの思いだった。
成人になった頃の祖母は、お生徒さんをとるまでになっていた。着物の注文も沢山あった。当時の適齢期よりやや過ぎた頃、見合い話が持ち込まれた。それが祖父だった。漆職人の祖父は、戦争も免役されるくらい身体が弱く、そのせいか今でいうバツイチだった。祖母は、自身も身体にハンデがあった為、親に言われるがまま結婚した。

祖母はとても勝気な人だった。子供の頃、足の不自由さを悪戯っこに揶揄われてきたせいか、自分で自分を守ってきただろう祖母は、かなりあけすけな物言いをした。
まともに学校に行かなかった祖母は、息子を学校の先生にしたかった。学の無い祖母にとって先生とは、誰から見ても優秀で恥ずかしくない職業だったのだろう。兄弟の中で一番優秀なのが私の父だった。スポーツも学業も秀でていた父のことを、祖母は「兄ちゃん、兄ちゃん」と、それは大事に育てたそうだ。
あの当時では珍しく大学まで進学した父は、更に自慢の息子となっていた。教員免許をとり、地元で教鞭を奮う自慢の息子。きっと夢にまで見ていたことだろう。

しかし、父の人生が変わる出会いがこの先待っていた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?