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肉うどんと無時間

 2024年4月10日水曜日。気持ちよく晴れた麗らかな天気。昼休憩のとき、キャンパス内の木陰の椅子に沈み込んでぐっすり休んでいるおじさんを見かけた。美しい時間だと思った。

 残念なことに今日も体調は改善しない。喉の痛みは引いたが咳と鼻づまりが治らず、餡かけのような倦怠感が全身にもたれかかる。ちょっとバランスが良いほうに傾いてくれればアンニュイとも呼べるかもしれないくらいの、なんとなくの怠さ。でもしんどい。体調は良いに越したことはない。

 さっき晩ご飯を食べ終えた。暖かい肉うどんに大根おろしを一山のっけたもの。出汁の温度と満腹感とで頭がふわふわして(あととても美味しかった)、時間そのものが止まってしまった感じすら覚える。さっきまで流れていたブルックナーの9番の深遠な音響が途絶えたことも影響しているのか、その余韻の中で時はますます動きを遅め、滞留し、沈殿し、凪いでいく。空っぽ。「空っぽ」以外に、この空っぽさの表現として及第点をあげられる言葉が見つからない。「っぽ」というのが、どうも悪くない印象を与えているらしい。空っぽ。だけど、そこに何もないわけではない。それでは、何かしらはあるんだろうか?探そうと思えば見つかるかもしれないけれど、でも、何もしない。ただ動かずに、じっとしているだけ。アタラクシア、とか、それを何か言葉で指し示してもいいかもしれないけど(アタラクシアではないかもしれない)、あまり、そういうことも要らない。強いて言うとすれば、こういう静寂平穏の、時間が止まった時間を過ごすことを、幸せの一つの形として自分の生活に取っておきたい。「ぼーっと過ごせる時間が欲しい」というのと、だいたいは同じであるけれども、「ぼーっと過ごしている」間は時間の流れが消えてしまうという点において、少しだけ違う。10分ぼーっとする時間が確保できました、ハイ次、というわけではないのだ。実体のない何かに身を任せるうちに、身を任せている自覚もないままに、いつの間にか時間の矢印がなくなっている、その全体のあらましが、いわば好きなのだ。

 今日は授業が二つあった。105分もじっと座って、一言一句聴き洩らさないように神経を張り詰めているのはかなりしんどい。正気の沙汰じゃないけど、世の中的にはそれが正気らしい。二つ目のほうは、内容がほとんど記憶に残っていない。げっそり疲れたけど、偶然ある友人R氏🌱と会って、彼としゃべるといつもは少なからず疲れさせられるのだが、今日の会話は気分のリフレッシュに一役買ってくれた。人と話をすることも、大事だ。気を取り直して、Rezső Kókai(1906-1962)というハンガリーの知らない作曲家の作品などを聴きつつ(ヴァイオリン奏者のEndre Gertlerという人が気になったものだから。バルトークと殆ど同じ曲調だがより単純平板でより親しみやすい印象があった)、図書館で本を読んだ。ドストエフスキーの『悪霊』。最初がずっとしんどい。噂好きの親戚から知らない人のゴシップやら与太話を延々と聞かされている感じ。あとは渡辺裕先生のポストモダン音楽論を読んで、といってもまだ19世紀以前の章までしか読んでいない。

 今日はわりあいすらすらと日記が書けた。しかしどうして日記を公開しているのか、やはりわからなくなってきた。そろそろ生活の中に時間の流れを取り戻さないといけない。

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