楽になろう

 2024年8月2日、午前4時58分。夜明けと独り言。

 中学3年の冬に厨二病を発症して以来、ずっとずっと自分の気持ち悪さについて悩み、罵り、呪ってきた。気持ち悪さの反省と自己鍛錬を重ねてより強く賢く善い自分になろうと藻掻いてはきたつもりだったが、無謀な期待と高望みばかりが空回り、己の卑怯に飼い馴らされ怠惰に挫かれ続け、身も心も疲れ果てて萎縮し、竟には自分の未来と可能性を自ら摘み取ることに破滅的な安心感すら覚えるようになってしまった。人生、うまくいかない。

 悩んでばかりでも仕方がない、そういう楽観的な言葉にはむしろ偽善と欺瞞を勘繰って猜疑心ばかり募らせ、一挙手一投足が大小様々の加害となり恥となり罪となるこの愚人にとって自己批判のほかに許される挙動など何ひとつない、そうやって自分を追い詰め絞り上げることで自分の醜さと臭みを消すことばかり考えてきた。それが高じていまや、悪臭を断つにはその源、この肉体を滅ぼさねば埒が明かない、そんな暴論にまでも手をかけるに吝かではない(今日も昨日も一昨日もまともな食事を口にしなかった)。しかし、生きてゆかねばならぬ。それが絶対命題なのかどうかもまた際限なく悩んでみてもよかろうが、しかし考えるべきは私という個別の死についての問題だ。私が死ねば母が狂死する、友が慟哭に沈む、私にとってはその想像力だけで命題の絶対性の補強は十分だ。生きてゆかねばならぬ。大丈夫、私は有難いことに周囲に受け入れてもらえている。顔を思い浮かべたたくさんの他人のためにも、私は私を生きていく。

 生きてゆかねばならぬ。それを前提とする以上、昨今の日常を支配する自己破滅的な言動も御法度にして前に足を踏み出さなければならない。もはや自分には自分の醜さに懊悩と自己批判をもって対処しきることはできない、身を切ることなしにそれをやり遂げる気力も体力も残されてはいないということを、受け入れる必要がある。地を滑り空を切る藻掻きがどんなに虚しく馬鹿らしく滑稽で後ろめたく思われても、自分を殺すことで安易に恥を消そうとしてはならない。不安、焦燥、自暴自棄、無力感、すべては疲労が見せる幻影だと、3年半前にも悟ったはずだ。後ろ指さされるのも陰口叩かれるのも、ほとんど私の自作自演みたいなものではないか?世間が私を攻撃するのではなく、私に刻み込まれた超自我が私を攻撃しようと蠢いているにすぎないのではないか?そういう幻影を信じることにしよう。いや、縦しんばその幻影が再び私の悪臭を暴いたとしても、じたばたと狼狽えずに静かに現実を引き受けよう。くよくよする自分を抑え克服することは、忌まわしき超自我の呪縛を解く憑き物払いになるはずだ。私に必要なのは幻影への信仰心というより、自分に対する覚悟と誠意だ。

 期待に胸をときめかせすぎてもよろしくない、裏切られた(裏切った)ときに恨みとなって帰ってくるから。手に入れたいものがなかなか手に入らないときにも辛抱をする訓練を積むべきだ、心の僅かなざわめきにもいちいち震え慄いてしまっては前にも後ろにも進めなくなるのは当たり前だ。手持ち無沙汰なときに意識に忍び入る漠たる不安を打ち消すために電子機器を触るのも一切やめにすることだ、その先伸ばしが苦しみを益々肥え太らせることをこの一か月でよく理解したはずだろう。考える(≒妄想を逞しくするだけ)よりも頭と体を動かし、外の刺激に揺さぶられることで自分の輪郭を知ること。苦しい時には、虎杖悠仁と五条悟。大丈夫、なんとかなるさ。

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