題無し
2024年4月13日土曜日(といっても、既に日曜日の午前3時)。一日中家に引き籠っていたので外の天気を知らない。しかし窓を開けていたから、雨ではなかったのだろう。夕刻、じゃんけん遊び「グリコ」に興じる元気のよい声たちが通学路を賑やかにしていた。いつかの雨の日に駅へ向かう途中に見かけたのと同じ児童たちだったかもしれない、あのときもグリコ遊びをしていたから。レインコートを羽織った一番後ろの女の子がみるみるうちに50mくらい引き離されて、もうお互いの手の形も視認できなくなってきたところだったが、すると先頭の少年が威勢よく声を張り上げてみなの出した手を確認し始めて、それが非常に微笑ましかった。自己申告制じゃんけん、そしておそらく誰もインチキしていない(これくらいの年齢の子だとその場でインチキが働けるほど知恵が発達していない可能性は有り得る)のがまた嬉しい。こうした率直な正直さを残したままに成長することは不可能だという現実の平凡な苦々しさを思うと、やはり子供時代というのは永遠にノスタルジアの源泉だ。今日部屋の中から聞いた声もたぶん、あの少年のものだったように思われるが、しかし身辺の整頓もままならない汚部屋で聞くと、なんとなくニート的心境の淵を覗き込んだ感じがして、今日ばかりはなんとも情け無い気持ちで消えてしまいたかった。
3日ほど日記を止めてしまっていたのは、日記を書く気など到底起こらないような、記憶から早く消し去りたいような日々だったからだ。二度と繰り返したくない、それなのに、同様の日をどれだけたくさん過ごしたことだろうか、どれだけたくさん今後も過ごすことになるだろうか。憂鬱、ここに極まれり、つまらない人間になってしまった。憂鬱は極まると、nihil(無)になる。もはや自分の中に縋り付く何物も無く、縦令その欠片があったとしても、縋り付く気力すら湧いてこない。こういうとき(一時的に(といっても日常的に)鬱が深まって冷静さと理性的判断力を欠いたとき)、私は既に人間ではない。人間が「本質的に否定性である」(コジェーヴ)ならば、それの二重否定。もっとも、真に人間である人間、天上のパンのみで事足れりとする人間がどれだけいるかは分からないかもしれない。圧倒的大多数の人間が地上のパンに飢えながら生きているのが、人類史の常なる在り様なのかもしれない。だが、それをさしあたり私のような動物が問うのはあまりに傲慢が過ぎる。人間失格。それも、ただの獣へ堕したに過ぎない失格者。「神様みたいないい子」だなんて、寒気がする。「いっそ奴隷にしてくれたほうがいい、パンを与えてください」。
どうも空々しい戯言ばかりが並んでいて我ながら閉口する。前の日記で漫然と時を過ごすことへの愛着を肯定的に書いてしまったものだから、ここ数日の時間の過ごし方が更にルースになってしまった。苟も学問的プロフェッショナルを養成する機関に今後数年間所属することを決めた以上は、学を修める覚悟を常に感じていなくてどうしようというのか(常に固くあるべきではないが)。人間になるのが難しくとも、人間のふりをし続けることが大事だ。憧憬がいずれ自分の実体の一部に受肉することを願って。気持ちを明るく持つ練習をしよう。何か悪いことや体の不調が起こった時に、破滅的傾向がそれに追い打ちをかける悪癖を克服したい。
明日が、明日からが、いい日になることを願って。
今日の写真は、最も億劫な家事の一つである洗濯の過程において犯した重大にしてannoyingな過失に関するもの。
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