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宿神論 「憑依」と「転換」について

「翁」を宿神と申し上げることは、
かの住吉大臣の御示現なさったときの
姿と符合している。太陽と月と天体の光が
地上に降下して、昼と夜が区別ができ、
物質が生まれ、またその光は人に宿ったのである。

太陽・月・星宿の三つの光は申楽に言う式三番に対応するものであるので、太陽・月・星宿の意味をこめて、「翁」を宿神とお呼び申し上げているのだ。「宿」という文字には、星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行うという意味がこめられている。

星の光はあらゆる家に降り注ぐ。そのようにどのような家にも招かれ歓待されると言うのが、星宿のお恵みではあるが、とりわけ宿神とお呼び申し上げている「翁」の威徳は、どんなに畏敬をこめて仰ぎ見てもあまりあるものがある。

 世阿弥と共に、能楽を大成させた金春禅竹は 「明宿集」現代語訳のなかで、宿神のことをこのように書いています。

そしてさらに「翁を宿神と申し奉ること」といい、「かの秦河勝は、翁の化現疑いなし」として、翁こそ猿楽者がもっとも神聖視した「宿神」であることを表しています。

金春禅竹・世阿弥によって書かれた書物により、翁=秦河勝=宿神という同一神としての扱いができるようになり、芸能者の中で「宿神」が神格化されていったのだろうと考えることができます。そして、さらには陰陽道・宿曜道といった星占いや呪術とも重なり、芸能・信仰・神道・アニミズムなどの世界観が、同一視の中で混ざり合い、複合していった。このように様々なものを同一視させ、統合させてしまう力こそが、宿神の性質なのだと言って良い。

 宿神を、芸能の視点か見ると、服部幸雄氏の宿神論の中に、世阿弥の書いた「蝉丸」という演目のことが取り上げられ、宿神論が説かれている。これは逆髪状態の人間、髪が逆立っている、身の毛もよだつ、憑依状態を表す「逆髪」から「坂神」、「サカの神」から「シュクの神」といった音の繋がりと神懸かりの状態を、言葉の転換に重ねながら、宿神論を展開している。

 ここで、宿神と翁の共通性、翁と秦河勝の共通性を追いかけていくと、「憑依」と「転換」に宿神の性質・特徴があることに気がつく。この「憑依」と「転換」についてテーマを絞り、もう少し宿神について話しをしたいと思う。

 宿神を、北極星・北斗七星として神格化する星信仰・宿曜道の視点から見ると。金春禅竹の明宿集に「宿神の『宿』という文字には、星が地上に降下して、人間に対してあらゆる「業」を行うという意味がこめられている」と書かれている。占星術は、星の動向、天体の影響が、人生の転機や性格と関係することを伝えている。ここには宿るという意味での「憑依」と宿命という命の「転換」があることがわかる。

 次に、伝統芸能の視点から見ると、能が成仏しきれぬ霊や神を憑依させ、憑依によって鎮魂を行い、狂言という喜劇によって昇華し、陰陽の転換を行なっている。能と狂言は、陰陽の関係として、常に共にあり、場の転換と共に陰陽の転換を行なっていることがわかる。能の白色尉(翁)は、陰の中の陽であり、狂言の黒色尉(翁)は、陽の中の陰として存在し、陰陽の安定を呪術として成立させている。どちらか一つが欠けても、神事として成り立たないのが翁であり能楽である。

 長野県諏訪大社には、昔からミシャクジ信仰というものがある。ここで祀られているミシャクジ神は宿神と同一視され、ミシャクジ信仰では、音の転換が強く見られる。ミシャクジ信仰は「ミシャグジ」「シュクジン」「サクジ」などと呼ばれ。漢字では、「宿神」「宿地神」「将軍神」、地名では「坂越」「尺子」「石神井」などに転換されながら、私たちの暮らしの中で静かに息づいている。

 このように宿神は、様々なものに宿り・憑依し、転移・転換して行きながら、様々な存在を同一視させ、統合させて行く。

 宿神=ミシャグジ神は、大和言葉の「サ・ク」と結びつけることができ、裂く運動が、「サク(裂く)」であり、裂けて現れることは「サク(咲く)」を意味し、顕れたたものは、「サチ(幸)」であり、それが飲料であれば「サケ(酒)」となる。場所で示される場合は、「サキ(先)」「ミ・サキ(岬)」「サカ(坂)」「サカイ(境)」を意味し、大避神社や坂越という地名に、宿神という存在は「サ・ク」の音の転換の中で、静かに存在している。この宿神が持つ音の共通性「サ・ク」は、上記内容に書かれているように、飲料であれば「サケ(酒)」を意味し、秦河勝が御祭神の大避神社は、大酒神社とも呼ばれ、「サケ(酒)」という音の中で宿神は、その性質を留めながら、転換の一部となって存在しているように思える。

 最後に、赤穂市坂越にある酒蔵・奥藤商事さんから日本酒「宿神」を共同発売させて頂いたことが切っ掛けで、宮崎県銀鏡神楽のドキュメンタリー映画「銀鏡」の監督である、赤坂友昭監督とご縁を頂きました。はじめてお会いした際に、赤坂友昭監督から、秦河勝と宿神のお話しが、銀鏡神楽に口伝として残っていることを教えていただきました。そのことを、赤坂友昭監督に文章にして頂きましたので、こちらでご紹介させて頂きます。

〜星への祈りー宿神面に伝わるお話し〜

宮崎県西都市銀鏡に伝わる星に祈りを捧げる銀鏡神楽。500年以上の歴史を持つ銀鏡神楽では三十三番の舞があり、この神楽に登場する神 楽面は御神体として祀られ、 土地の人々からは「面様」と呼ばれ信仰の対象となっています。そして、いくつかある「面様」のうち、式十番の宿神三宝荒神の神楽で登場する 「宿神面(しゅくじんめん)」には、こんな言い伝えが残されています。

銀鏡「宿神面」

世阿弥は風姿花伝で、秦河勝が「六十六番」の舞を紫宸殿で聖徳太子に披露したこ とが申楽・能楽のはじまりであると伝えていますが、銀鏡に伝わる言い伝えでは、 秦河勝は聖徳太子から六十六番の面を作るよう命を受けたといいます。彼は、東大 寺の西南西(申の方角)にある猿沢の池に沈んでいた楠の木を引き揚げ、その古木 から六十六の面を掘りだしました。その六十六面のうち、半分の三十三面が翁面、 そして残りの三十三面は鬼面であったといいます。宮崎にはそのうちの三面が伝わ り、銀鏡神楽の宿神面はそのうちの一面だというのです。

この言い伝えは、陰陽五行思想に基づいた「宿神面の本質」を言い表しています。 まず「東大寺」は東ですから、陰陽五行思想では「木気(命の芽生)」を意味しま す。この「木気」を育むために、水は木を育てますから必要なのは「水気」です。 水気の極は、十二支を円環状に配した時、真北すなわち北極星の方角となります。 陰陽五行思想では、「真北=子の方角」は北極星であり命が依りくる方角、すなわ ち宿神の住まう場所と考えることができます。西南西に位置する猿沢の池は、十二 支の子を北に配すれば「申」の方角であり、「申」は陰陽五行思想では金気(命の 終わり)に配されています。また、猿沢の池は(猿=申)ですし、さらに龍神が棲 むといわれていたことから、「龍=辰」でもあります。この子・辰・申は、十二支 の円環上で結ぶと正三角形を描き、陰陽五行思想では「三合の理」とされ「子(水 気)の三合」は水気の循環の促しです。水気の極に配される北極星という宇宙神か ら命の種をいただき、その理をこの世に循環させる働きを意味します。さらに、池 に沈んでいた木は、水気を身に纏う木気と考えることもできます。水気を循環さ せ、木気という命の芽生を促す。それは、宇宙神からの命の種をこの世にもたらし 育むという正しく宿神の働きそのものを表しているといえるでしょう。

図は『陰陽五行思想からみた日本の祭り』吉野裕子著・人文書院より引用

宿神、それは森羅万象の命の由来である星とその命が生きるこの大地との繋がりを 私たちに教えてくれます。その働きに感謝しつつ、星を見上げればいつもとは少し 何かがちがう心の風景に気がつくかもしれません。願わくば、星の見えない夜も心が宙に星を描けるような世界が育まれますように ー、祈りを込めて。

ドキュメンタリー映画『銀鏡 SHIROMI』
映画監督 赤阪友昭

最後に、この宮崎県銀鏡神楽の宿神面は、一度盗まれかけるのですが、何処からともなく法螺貝の音が聞こえ、音に釣られて1人の住民が外に出てみると、風呂敷を担いで逃げようとする盗人を見つけます。その時、風呂敷が岩に挟まり、岩から面が離れなかったため、盗人は宿神面を岩に置いて逃げ去ったと伝えられている。その時に面を見つけたお家の方が、宿神面をお守りする宿神三宝稲荷神社、銀鏡神社、境内外末社宿神社の神主となられて大切に守られています。

秦河勝公が彫ったとされる宿神面は、坂越大避神社の蘭陵王の面と似ていて、大きくゴツゴツしながらも繊細なところがある。この二つの面は66面の共通性を感じさせてくれます。ぜひご興味のある方は「銀鏡」という映画を見て頂けたらと思います。銀鏡神楽では、星信仰・宿神・芸能の繋がりを、今でも垣間見ることができます。

終わり

おおさけのおさけプロジェクト 坂本 尚志

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