芸術、文化について

筆者の若い頃、芸術文化は東京やハリウッドの様な煌びやかな世界にあった。そこには専門の技術知識を身につけた限られた才能“芸術家”と呼ばれる少数の人々がいた。学会で働く“学者”という肩書の知識人たち、彼らも文化の担い手とされる。こう言った肩書の持ち主がテレビや新聞雑誌など、メジャーメディアに登場し、人びとの関心を得る優れたエリート文化人なのでありました。

彼らには自らの才能を遺憾なく発揮する大きな舞台やミュージアムが用意され、良い観客席は高額で取引される。その興行には巨額のマネーが飛び交う。その席からあぶれたとしても大丈夫。テレビ中継で見れば良いのです。

このようにキラキラした世界を眼にした人びとは、ああ、文化というものはあのような手の届かぬ世界のものなんだなと幻惑し、私の手で作る料理、私の描く絵、歌う声などとるに足らぬと落胆し、ある者は出来レースに疲れ果てて筆を折る。

時を経てインターネットの時代を迎え、このような文化芸術の世界観が大きく変わろうとしているように思います。遠くにある様に思えた舞台や美術館がより近くなり、人びとの興味関心は細分化され、多様な価値観を誰もが小さな画面で認められる様になった、そしてより個人としての表現の場が広がりをみせる。インターネットは素晴らしいものです。

しかし、そうであればこそ、より文化芸術とは何かが問われる時代でもあると筆者は思います。

以下は筆者の考える文化、芸術なるものです。

幾千の時代を人びとが共に生きてきた証としてこの世界中至るところ、どんな地方の小さな町にも、小さな村にも、歌があり、祭りがある。多様な無数の文化がある。

人びとは日々の生活をとおして脈々と文化を紡いできた。文化をとおしてつながりコミュニティを作り上げていった。

そして現代において画一化されたように見える都市や地方の街並みにおいても、よく目を開けば至るところに文化を感じる事ができる。なぜなら文化とは生活そのものであるから。そして生活とは芸術であると筆者は考えます。

それは日々移ろう生活の残り香のようなものと表現しようか。あるいは自らと先人が残した足跡とでも言えるだろうか。人生のどの瞬間を見ても、そこに自身を表現するあなたがいる。

大自然の懐に抱かれていることを想うこと、眼に見えぬ限りなく美しい世界を感じ表現すること。そこに私が存在すること、芸術表現は魂における無限の喜びだと思うのです。

魂を表現し、喜びを分かち合い、学び、共に生きる術だと筆者は考えます。

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