夢の世界(ショートショート)

 私は夜の街を歩いていた。月明かりはなく、車も通っていない。ただ、道路に沿って等間隔に並べられた街灯だけが誰もいない街を照らしていた。風もなかった。むしろその方が心地よかった。生ぬるい風を受けるくらいなら、このまま暑さを我慢した方がいいと思った。時折酒に酔った若者とすれ違った。ちらりとこちらを見ては、また楽しそうに会話に戻っていくのである。その光景だけは昼であっても夜であっても変わらないようだった。いつも私が街を歩いていても、私を見る目はどれも冷たかった。
 いったいどれくらい歩いたのだろう。振り返ってみてもどこから歩いてきたのかを覚えていない。私自身酒を飲んだ記憶はないのだが、もしかすると酔っているのかもしれない。足を踏み出すたびに頭が揺れる。一歩前進するたびにぐわんと揺れる。それほど酒に弱いはずではないのに、どうしてこんなに頭がグラグラするのか全くわからなかった。家に帰ったら、大量の缶やビンが散らかっているのかもしれない。そんなことを思うと少し憂鬱な気持ちになった。そうだ、と私は気付いた。どうして酒を飲んでいるのにこうも気分が上がらないのか。どんなに仕事で疲れて帰ってきても、ビールを片手にドラマを見ている時間があれば、また次の日意気揚々と玄関を出れるような私が、酔って気分が悪いなんてことはあるはずがない。一旦、タクシーを呼ぼうと思った。道路を見てみても、タクシーどころか車さえ走っていない。携帯で呼ぶしかない。そう思ってポケットを探ろうとした。そこで私は赤面する。ズボンを履いていなかったのだ。おかしい。酒に酔ったとしても公序良俗は守る人間だと思っていた。しかし、現に下は裸なのだ。しかし私はまた、おかしい、と思う。では先ほどすれ違った若者はなんなのだ。下半身丸出しで夜の街を歩く男性など、ちらり、で済むわけがない。私ならすれ違うまで横目で見続ける。そんなことを思っていると、汗が出てきた。それもそのはずだ。そもそも今は八月。暑くて当然なのに、加えてとんでもないことをしでかしているのだ。私は無意識に、こめかみから流れ落ちる汗を肩で拭いた、つもりだった。そこで私はさらに気付く。上も裸なのだ。ますます汗が出てきた。幸い歩道には人影はない。何せ深夜なのだから当たり前だ。
 一旦落ち着いて、隠れようと考えた。しかしそんな状況でも、頭の揺れは全くおさまっておらず、歩くたびに視界が揺れた。こうなれば生ぬるい風であっても、風に当たりたかった。それなのに風は全く吹かず、ただただ恥ずかしさと夏の暑さで体はほてっていくばかりである。冷静になる時間なんて全くなかった。私が慌てふためいているちょうどその時、目の前のコンビニから入店音が聞こえた。誰も歩道にいないのにその音が聞こえると言うことはドアが開いて人が出てくると言うことである。私は人生最大に慌てた。慌てに慌てた結果、何を思ったのか口笛を吹いた、つもりだった。どうやら一連のことで唇が乾燥していたらしい。乾燥して硬くなり、口笛のくの字も感じさせない音がなるばかりだった。これも幸いだったが店をでた男性は私がいる方とは反対の方向へ歩き出したため、姿をみられることはなかった。口笛が出ていたら振り返っていたかもしれない。危ない。
 一難さってまた一難。次は腕が前に出ないことに気付く。五十肩で上に上がらないのは聞いたことがあるが、まだ働き盛りの私が腕をそれも前に出せないだなんて聞いたことがなかった。これではこけた時手がつけない。ただでさえ頭が揺れて危ない状態なのに、これじゃあこけてしまう。しかも腕を前に出せないと言うことはそこから起き上がれないと言うことだ。裸で道路に寝そべる成人男性を誰がみたいのだろうか。明朝、女性の悲鳴とともに聞こえてくるサイレンの音をどう言う表情で私は聞けばいいのか。絶対にこけることはできない。そう思った。小さい石ころでさえも危なかった。何かの拍子でつまづいては本当に本末転倒となってしまう。いつもは気にしなかったタイル状のデザインが施された歩道も今となってはただただ頻出する段差を生み出す巨悪な道路でしかなかった。小さな段差は文字通り命取りとなるのだ。歩道を歩いていただけで人生を終えたくはなかった。私はだんだん国すらも憎くなった。いや、こういう歩道を全国的に展開しようとした先人全員を恨んだ。どうしてこんな状況を予想できなかったのか。甚だ疑問だった。
 すると遠くから赤い光が見えた。こんな時に限ってパトロールである。私は願った。警官が互いに話に夢中で歩道を見るのを怠り、そのまま通過することを。なんならここにくるまでに事故でも起こせばいいとまで思った。それほど緊迫した状態だったのだ。額から汗がつーと流れた、気がした。どうやら汗も気のせいだったらしい。そうだ、そもそも私はそれほど汗をかくタイプでもないのだ。脇汗の跡を作っている友人を見るときすごく蔑んだ目でみてしまうような男だったことを思い出した。
 気が付けば、パトカーははるか後方を行っていた。なんとバレずに済んだのだ。私は超能力を発現したのかもしれない。自分が思ったことならなんでも叶う、そんな超能力が自分に備わった気がした。試しに目の前で眠る芋虫を食べたくなる暗示を自分にかけた。するとどうだろう。みるみるうちによだれが出てきた、いや実際にはよだれは出ていなかったが、脇目もふらずその芋虫を食べてしまった。しかもなんと美味だったのだ。小学生のわんぱく坊主に虫を見せられては涙を流していた頃のかつての少年はそこにおらず、虫を口に入れるという当時のわんぱく坊主よりももっとわんぱくなことを成し遂げたのだった。本当になんでもできる気がしていた。これはあれをやるしかない。そう心に思った。空を飛ぶのだ。夜の街を上空から見下ろし、夜景を眺めたい。この時はすでに自分が裸であることなど全く考えていなかった。少年であったあの頃のように、頭を夢が埋め尽くしていた。飛ぶぞ。そう思い、腕を鳥のようにバタバタとさせた。すると、ふわっと体が宙に浮かび、気がつくと高層ビルの間を縫うように夜の街を飛んでいたのだ。
 その時の私はとても幸せな顔をしていたであろう。なにせ空を飛んでいるのだから。飛行機で空を飛ぶのではない。ヘリコプターで滞空しているのではない。また、スカイダイビングで空から落ちているのでもない。右へ左へ、上へ下へと、自分の思うように飛べるのだ。不意に喉がなる。そういや気分が高揚した時、喉がなる癖があったような気がする。しかし、全てがどうでもよかった。今が何時で、何月で、どこの街にいるのか、全部忘れてしまった。そうして、少し息が上がってきた頃、近くの公園に降り立った。ベンチにはカップルが腰掛けている。私はこの幸せな気持ちを誰かに話したくて、そのカップルに近づいて行った。が、カップルがこちらをみた瞬間自分が裸であることに気づいた。人の目と言うものは恐ろしいものである。大切なことに気づかせる力があるのだ。ただ、そこから引き返すことはできない。私はどんとかまえた。しかし、彼女の口から出た言葉はこうだった。
「なんかあげれば。」
 もしかしたら、服を恵んでほしいと思われたのかもしれない。夜に裸で近づいてきた男性に悲鳴をあげるでもなく、服を恵むことを真っ先に考えるとはなんて聖人。私は彼氏の次の行動を待った。彼氏はガサゴソとカバンを漁り、一つのクッキーを取り出した。まさかのスカシ芸である。本物と思われる人間に、スカシボケを放つのだから、この男は大した度胸である。しかし、いただいたからには食べないわけにはいかない。手は使えないので犬のようにそのクッキーを食べた。それを見た彼女は笑う。
「食べた食べた。」
 私はその笑顔を見て、もう一度思った。守りたい、と。それを聞いて彼氏はこう言う。
「ハトだからね。」

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