小説『わたし』
目が覚めると、私がいた。
哲学的な話がしたいのではない。私の隣に、私としか思えない何かが寝ていたのだ。
これ、幽体離脱ってやつかな?と自分の身体を見下ろす。ペタペタと自分の身体を触ってみる。
いつも通りだ。幽体離脱したことがないのでよく分からないが、ちゃんと実体として存在している。と思う。
じゃあひょっとして、目の前で寝ている私と同じ顔をした何かが私の幽体なのだろうか。
それを確かめようと手を伸ばす。すると私と同じ顔の何かがパチっと目を開けた。
スッと上体を起こして、私を見る。
あなた、誰?
私が聞くと、私はあなた、と答えが返ってきた。
それきり何も言わないでただ私を見つめている。
ふうん、と呟いて私はベッドから降りた。
仕事に遅れそうだったからだ。
今日は会議のある日なので、遅れるわけには行かなかった。
どうせ何も発言せず、ただ隅で座っているだけの会議なのだけど。
それでも、遅れたらその場で(つまり、会議に参加しているほぼ全職員の前で)罵倒され、白い目で見られてしまう。
他人の噂話と粗探しだけを日々の楽しみにしているような同僚のオバさんに嫌味を言われ続ける一日となってしまう。
それだけは絶対に避けたかった。
いそいそと顔を洗い、食パンを焼いただけの朝食を食べる。
もぐもぐとパンを咀嚼しながら着替えを済ませ、最低限のメイクをする。
ベッドの上の私は先刻と同じ場所、同じ格好で私のことを見つめていた。
「私、仕事、行くけど。」
そう声をかけると私はベッドの上に座ったままこくりと頷いた。どうやらこのまま家にいるつもりらしい。
一応、いってきます、と声をかけて私は会社へ向かった。
その日の業務も、特段変わったところはなかった。
座っているだけの会議をやり過ごし、今日の仕事内容を確認する。
今日は、お客様との打ち合わせが二本。
先週の打ち合わせ後に修正したプランをもう一度確認する。
お客様からの無茶な要望に答えるために何日も残業して練り直したプランだ。問題はないはず。
今日は例のオバさんの機嫌もいいようで、嫌味も飛んでこない。悪くない滑り出しだ。
意気揚々と打ち合わせに向かうと、早々に前回の要望を丸ごとひっくり返すような要望を出された。
まあそれもよくあることだ。
打ち合わせを終え、コンビニで買ってきたサンドイッチを片手で齧りながらもう片方の手で修正案を図面に描きつけていく。先週の残業は丸ごと無駄になった。
まあそれも、よくあることだ。
残りのサンドイッチを口に押し込みながら席を立ち、二件目の打ち合わせに向かう。
二件目の打ち合わせは比較的スムーズだった。修正も少なそうだ。
オフィスに戻ってからサクッと修正案を図面に描きつける。
ふうっと一息付いて完成した図面を眺めていると
「何、今日もう終わり?じゃあこれお願い。明日まで」
と何やら紙束を押し付けられた。アンケートの結果をデータ化し、さらにグラフにすればいいらしい。明日の会議にでも使うのだろう。
私だってまだ一件目の打ち合わせのプラン修正が終わっていないのに。
そう思ったが、仕事を押し付けた張本人は外回りでもあるのか、さっさとオフィスを出て行ってしまった。
そこそこ大手のこの会社は男尊女卑の風潮が根強く残っており、女性社員は少しでも手が空いているとすぐに雑用を押し付けられる。
データは思ったより膨大で、全て終わる頃には終業時間になっていた。
それから一件目の打ち合わせのプランの修正をする。プラン修正は打ち合わせ当日中にするのがこの職場の暗黙のルールだった。
やっと全ての業務が終わり、帰り支度を始める頃には21時を回っていた。
まあでもこれも、いつものことだ。
家に残してきた私のことを思い出したのは、自分でも驚いたことに仕事を終えて駅へ向かおうとしている時だった。
目が覚めたら私がいるというとんでもない事態に遭遇したのに、私はそのことを今の今まで忘れていたのだ。
まだ、いるのだろうか。
家の中を荒らしたりはしていないだろうか。
実は何らかの方法で私と同じ顔になった変質者か何かだったらどうしよう。
そんなことを考えながら家に帰ると、私は相変わらずベッドの上に座っていた。帰ってきた私を見て少しだけ微笑む。
「ずっとそこにいたの?」
なかば呆れたように声をかける。
「何か食べた?」と聞くと首を横に振る。
食べなくても大丈夫なのだろうか。
小分けにして冷凍しておいた白米を電子レンジに移しながら、ご飯食べる?と一応聞いてみたけど、私はやはり首を横に振るだけだった。
まあいいか、と買ってきた惣菜と納豆ご飯で自分だけさっさと晩ごはんを済ませる。
私がシャワーを浴びている間も、ぼんやりテレビを眺めている間も、私は何も言わず、ほとんど動きすらせずに私を見つめていた。
私がベッドに入り電気を消して横になると、もう一人の私もそっと横になったのが分かった。
翌朝も、やはり私はいた。
私の隣で眠り、私が起きるともう一人の私も起きる。
会社行ってくるね、と声をかけるとこっくりと頷く。
そして私が会社から帰ってくると、朝と同じ場所で、私を見て少しだけ微笑む。
そんな日が何日か続いた。
ある日、どうせ何もすることがないなら、したいことをしてみれば、と私に言ってみた。
いつもなら、会社行ってくるね、とだけ声をかけるタイミングで、不意にそんな言葉が口を突いて出てきたのだ。
いつも同じ場所でただ私を待っている(ように見える)私が不憫になったのかも知れない。
ただし、仕事してないってご近所さんに思われても面倒だから、外には出ないでね。
じゃあね、と私は会社へ向かう。
家に帰ると私がベッドの上ではなくリビングにいたので、私はとてもびっくりした。
そう言えば、したいことすればって言ったのは私だった。
私は家にある本を読み漁っていたようで、見覚えがあるようなないような本が脇に積まれていた。
いつか読もうと思って買ったもののなかなか読む時間が取れず、積ん読状態になっていた本だ。
「あっ…」
それ、時間ができたら読もうと思ってたんだよね、という誰に向けたでもない言い訳が頭を過る。
口には出さなかった筈だけど、もう一人の私は分かってるよ、とでも言いたげに微笑んだ。
なんとなく気まずくなって、
「面白かった?私もどれか読もうかな。どれが良かった?」
と聞いてみる。
これかな。これもいいけど。でも一番はこれかな。
と私が積まれた本の中から一冊を選び出して、私に差し出してくれる。
私はろくにタイトルも見ずにその本を受け取り、時間ができたら読むね、と言ってその本をテーブルの上に置いた。
その日を境に、私は私に色々な話をするようになった。
色々な、とは言ってもほとんどは仕事の(主に例のオバさんの)愚痴だったけれど。
仕事を終えて家に帰り、買ってきた惣菜と温めた白米を食卓に並べる。
私は相変わらず何も食べようとしなかったけれど、私が「ねえ聞いてよ」と声をかけると必ず食卓に私と向かい合って座り、時々相槌を打ちながらいつまででも話を聞いてくれた。
私と話すのは、楽しかった。
私は私の言うことを決して否定しない。そして必ず私が欲しい言葉をくれる。
何より、とても気が合った。
当たり前だ。私は私なのだから。
あの人は自分より若い子には誰にでもああだから、気にしないでいいよ…
ある朝早くに人の動く気配がして目を覚ますと、珍しく私が先に起きていて、Tシャツにスウェットという姿で靴箱を漁っていた。
早朝ランニングがしたいのだと言う。
確かに早朝ランニングならば、誰かに見られても仕事をサボっていると思われることはない。
そしてまた早朝ランニングもいずれ私がやりたいと思っていたことだった。
まずはランニング用の靴を買ってから、と思っていたのだけど、靴屋に行ったらランニング用シューズの値段にビビってしまい、結局買えなかったのだ。
もちろんその後一度もランニングすることなく今に至っている。
「でも、走る用の靴、ないよ。いずれ買おうとは思ってたんだけど…」
私が言うと、私は別にいい、と首を横に振った。
これを貸して、と昔買ってほとんど使っていない安物のスニーカーを引っ張り出してくる。
それを履いて、彼女は早朝ランニングに出ていった。
それから彼女は、したいことをすれば、という私の言葉通り、私のしたいことを次々にやるようになった。
お菓子作りをしてみたり。
いつかやってみたいと買ってそのままになっていたミシンを引っ張り出して、ハンドメイドをしてみたり。
ハンドメイド作品は、最初こそいかにも素人が作ったという感じで縫製もガタガタだったが、見る見る上達し、数週間後にはこれは売れるんじゃないかというレベルになっていた。
私が感心して、これ売れるよ、と言うと、少し恥ずかしそうにこれまで作った作品の山を見せてくれた。
毎日朝から晩までひたすらに作り続けてきたのだろう。
その作品の山には、彼女の成長の軌跡がありありと見て取れた。
翌日から、彼女は自身のハンドメイド作品をネットを活用して販売するようになった。売れ行きはまずまずのようだった。
それから、料理もするようになった。
ある日仕事を終えて帰ると家の中からとてもいい匂いがしたので、びっくりしてしまった。
彼女の料理は、まぁまぁ美味しかった。何だか馴染みのある味だ。
というか、私がたまに気が向いて自炊した時の味だ。
それはそうだ。彼女は、私なのだ。
相変わらず彼女は何も食べなかったが、彼女は毎日私のために晩ごはんを作り、またその腕をめきめきと上げていった。
私が仕事を終えて帰ってくると、彼女は料理の仕上げに取り掛かる。
たまには揚げ物が食べたいなぁと今朝呟いたのを覚えていたのか、今日は何かのフライのようだ。とんかつかな。
台所には調理器具が一通り揃っている。
一人暮らしを始めた当初、これから毎日自炊するぞ!と張り切って一式揃えたのだ。
彼女の手が、小麦粉をはたいた豚肉を掴む。
手際よく溶き卵に肉をくぐらせ、パン粉をまぶしていく。
それを油にそっと入れると、ジャッと小気味の良い音がした。
豚肉を揚げている間にキャベツを取り出し、トントントン、と気持ちのいいリズムで千切りにしていく。
私は一人暮らしを始めてから、揚げ物なんて一度もしたことがない。
彼女が出してくれた揚げたてのとんかつは、とても美味しかった。
ある朝、私が仕事の出掛けにゴミを出しに行くと、顔見知りのご近所さんと行き合った。
おそらく母と同じくらいの年齢で、相手もまた我が子と私を重ね合わせているのか、一人暮らしを始めた当初から何かと気にかけてくれている人だ。寂しい一人暮らしにとってはありがたい存在だった。
「最近、偉いね」
と声をかけられ、何事かと首を傾げる。
「いつも朝早くに走っているでしょう」
とニコニコしている。
ああ、彼女のことか、と思い生返事を返す。
あれからも早朝ランニングは続けていたのか。
私が起きるのはいつも出勤時間ギリギリで、最近は起きると彼女が既に台所に立って朝食を用意してくれているので、私が起きる前に彼女が何をしているかなんて全然知らなかった。
そういえば彼女、最近身体が引き締まって、姿勢も良くなってきた気がする。
「無理はしないでね」
という声を背に、私は急ぎ足で会社へと向かう。
その日は、最悪だった。
オバさんの機嫌はすこぶる悪く、電話に出るのが遅いだの机の上が汚いだの重箱の隅をつつくような嫌味が事あるごとに飛んできた。
無視するわけにもいかず適当に対応していたら会社を出るのが遅くなってしまい、更に工事のせいで道路が渋滞していて打ち合わせに遅れ、先方を怒らせてしまった。
もちろん帰社してからその事で上司に激しく怒られた。
もう遅刻するわけにはいかないと昼食も食べずに2件目の打ち合わせに向かうと既に工事は終わって渋滞は解消されており、しかも今度は先方が遅刻して合計で2時間ほど待ちぼうけを食う羽目になった。
会社に戻ると今度はオバさんに明日までだから急ぎでお願い、と仕事を押し付けられた。
それをなんとか終業時間ギリギリに終え、2件目の打ち合わせのプランを修正していると、残業が多すぎる、仕事の効率が悪いと上司に怒られた。
一応、オバさんに頼まれた仕事をやっていたのだと弁明したが、自分のキャパシティを考えずに仕事を引き受けるのが悪いのだそうだ。
上司に怒られる私を尻目にオバさんは退社して行った。
今日は、最悪だった。
やっと全ての仕事を終えた頃には22時を回っていた。
重い身体を引きずるようにして駅へと向かう。
どことなく駅前がいつもより浮き立っていて、今日が金曜日だということに気付いた。花金というやつだ。
昨年中国に端を発した新型ウイルスの世界的な流行は1年以上経った今でも終息の気配を見せていない。
政府が自粛要請を出してみたり緊急事態宣言を出してみたりしているのだが、仕事終わりに飲み歩く輩は一向にいなくならない。
こういう輩がいるからいつまで経っても感染が終息しないんだ、と駅前を赤ら顔で歩く人々を忌々しく見やる。
私はもうずっと、外で飲むのを我慢しているのに。
そんなことを考えながら、本当は自粛要請があろうとなかろうと、自分にはそもそも仕事終わりに一緒に飲みに行くような友達がいないことに自分で気付いていた。
新型ウイルスが流行する前は、誰もいない家に真っ直ぐ帰るのが何となく寂しくて、一人でも入りやすい店を探して外で夕食を済ませたりすることもあった。
でも今はそんなこともない。
感染を広げないために、真っ直ぐ帰る。
その気持ちは嘘ではない。
だが、感染拡大予防という、真っ直ぐ帰らなければいけない口実ができたことに心のどこかでホッとしている事もまた事実だった。
新型ウイルスを、友達と飲みに行かないことの言い訳に利用し
要請を無視して飲み歩く人を批判することで自分を正当化する。
言い訳で塗り固められた、私の毎日。
家に帰ると、彼女はパソコンに向かって何やら楽しげに話していた。
オンラインでビデオ通話できるアプリで誰かと話しているらしい。
最近よくパソコンで何かをやっている彼女は、先日SNSで友達ができたと言っていた。その人と話しているのかもしれない。
彼女は私に気が付くと、じゃあまたね、とオンラインの会話を切り上げた。
そして、温めるだけだからちょっと待ってね、と台所へ向かう。
上着をハンガーにかけながら、誰と話してたの、とできるだけさり気ない調子で聞いてみる。
最近サイト運営を始めたんだけど、その関係で知り合った人。なんだかとっても気が合って、一緒にビジネスをやろうって話になっているの。
ふうん。
まあ興味ないけど、という風で相槌を打つが、うまくできたかは分からない。
今日のご飯は筑前煮と焼き魚、小松菜のお浸し、具沢山のお味噌汁。
彼女の手が、手際よくそれらを盛り付けていく。
私は筑前煮なんて、一度も作ったことがない。
彼女の手が、料理を運ぶ。
いつの間にか私よりもずっと引き締まった、美しい彼女の身体。
美しく盛られた料理。
姿勢良く背筋の伸びた、彼女の身体。
とても美味しい、彼女の料理。
私には、できない。
・・・・・・
・・・ずるい。
気がつくと、そんな言葉が口を突いて出ていた。そして止まらなくなった。
ずるい!ずるい!ずるい!!ずるい!!!
私はずっとやりたいことを我慢して、行きたくない仕事に行って頑張っているのに
あなたはずっと家にいて、私がやってみたいことをやって
どんどん料理もうまくなって、身体も綺麗になって、肌も私なんかよりよっぽど綺麗
私だってそうしたいのに!本当はそうしたいのに!!
ずるい!ずるい!ずるい!!ずるい!!!
・・・・・・・・・
「どうしてしないの?」
肩で息をする私に、彼女は言った。
顔を上げ、彼女を見る。
彼女が私を見ている。
その瞳には、同情も憐れみもない。
「できるよ。」
初めて会った日、私はあなた、と言った彼女の言葉が蘇る。
何も言えないでいる私に
「できるよ。」
ともう一度彼女は言った。
そしてそれきり何も言わなかった。
目が覚めると、私はいなくなっていた。
いつもどおりの朝。
もう台所に人の気配はない。
ノロノロと起き出し、洗面所に向かう。鏡を覗き込む。
疲れた顔をした私が、私を見ている。
常に隈が消えない目元。化粧ノリの悪い肌。だらしなくたるんだ身体。
いる意味のない会議。詰め込むだけのランチ。上司の愚痴と嫌味。
何も掴めない両手。何もできない私の両手。
彼女が料理をする時の、美しい手元を思い出す。
ネイルサロンで見た目だけは整えた、何もできない私の両手。
「 」
小さく呟いて私はスマートフォンに手を伸ばし、会社の連絡先を呼び出した。
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