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2024/03/01

仏教と資本主義の相性は悪そうだなって初期仏教かじり始めた時期からずっと思ってる。

投稿するつもりではなかったのでめちゃめちゃ散文で、論の筋が混線してる。

当時はガツガツしたオタクでグッズやら何やら買い集めたり旅行行ったりの消費活動は今より激しかったんだけども、初期仏教は「この世に生まれてくることはそれそのものが苦しみであって、再び生まれないよう輪廻の輪を脱するためには煩悩をなくし阿羅漢に至る必要がある」みたいな考え方が基底にあるのでじゃあ自分は一生解脱できひんやん\(^o^)/と思ってた。

人間の欲望を苦しみの根源だとするなら、つまりは進歩、発展や経済(経世済民ではなく)ととにかく相性が悪いからうまく権力とか土地の人に馴染まないと排斥されそう。ここに関してはおそらくきちんと仏教史を辿るべきだと思う。ふわっと語るより調べたほうがわかりやすくて早いと思われる。

「お坊さんは福田であり、お坊さんにお布施すると功徳が得られますよ(逆に言えばお坊さんたちは福田に値する徳の高い存在でなければならない)」っていう理屈で教団の運営を成り立たせてたみたいな話を聞いた朧気な記憶はあるけどなんか、なんというか。
奥歯に物が挟まる……。


今改めて初期仏教を見るとこういう考え方は反出生主義とも絡む(絡めることができる)と思った。

反出生主義サイドから見た仏教の世界観とか、逆に仏教サイドは反出生主義やら資本主義に対してどういう立場を取ってるのかとか気になる。

軽く調べたらまさにブッダほか思想家の言葉を引きながら反出生主義について書いてる本があった。
すごく気になるけど題がどストレートに『生まれてこないほうがよかったのか?』で迫力がある。

結論をどっち寄りに持って行ってるのかによって(今すぐの)読みたい・読める度がだいぶ変わる。
個人的にちょっと大変な時期っていうのもあって、あんまり抽象的で壮大な問題に引き込まれると自分の目の前の現実が立ち行かなくなるから。


全然関係ないところ、変な角度に話を飛ばすと、役に立つ立たないで人や物事の評価をしていると極論人/ヒトという存在は何の役に立っていて何のために存在しているのかって話になり、その答えがポジティブなものでないなら、あらゆるもの、時折話題になってる教育関連のことはおろか、愛情や信頼みたいなものも、学歴も国家資格も福祉も経済も社会も地球も数式も物理法則すら何の役にも立たないことになるのではないか(これを肯定するのが虚無主義だっけか……?)。

その結論をただ受け入れて終われるならいいけど、すべてのものが理由も意味も価値もなくただそこにあるだけだと仮定しても、気持ちよく起きた朝の散歩とか、夜中のチキンラーメンとか、友達と公園で雑談してたら夜になってたときとか、そういうのがなんか楽しいのは確か。
お金ないし、幼少期の家庭環境もよくはなかったけど、そういうの好きだから、そういう思い出を心の中でしがみ続けているし、これからもそういう瞬間があってほしいなと思いながら生きてる。

進撃の巨人137話アルミン&ジークの道トークみたいな話になった。
アニメEDの歌詞で喩えるなら「骨はどうせ砂と化して消えるのに」がジークで「生きてる」がアルミンだと思ってる。

というわけで、できることなら実学的、即物的なことばかり追い求めるのは程々にしたいと思っている。

いうて長々と趣味の文章を書いて余裕ぶっこいてる場合ではない、まったくないのだが!

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