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自分の役目

11月23日(土)協力隊生活108/730days
・・・活動期間、7分の1以上経ってるってなんかすごいな。


正直今、活動がうまくいっているわけではない

現状を簡単に言うと、
自分はここで、特に必要とされているわけではないんだなということ
一クラス算数を受け持ったものの、私じゃなくたっていい。もともと10月まで私以外の人がやっていたんだから

学年末テストが終わり、先生たちは一層教室に行かなくなった
教室には子ども達がいるのに。
「教室に行かないの?」
「テストの結果整理で忙しいのよ」
「あなた行きたかったら行っていいわよ」

そりゃ行きたいけど、そーゆー問題か?
忙しいって何?
結果整理とかって、1日朝からやることか?
子どもの顔一回も見ずに?
あなたたちの仕事はなに?
子どもたちはなんのために学校に来ているの?
子どもと関わるよりも座って休んで携帯いじって先生同士でおしゃべりしている時間の方が長いとちゃいますか??

でもその感覚は彼らにはない

「今日はみんな何するの?」
「私何したらいい?」
日によって聞き方を変えてみるが
なんだかパッとしない答えばかり

他の村の教育隊員は、パソコンに結果入力を手伝うなど、ここの先生たちだけではできないことをやって、さっそく活躍しているようだった
私の学校にはパソコンがないし、先生たちは手書きで結果まとめてるし、そのことで手伝ってほしいとか何か提案してほしいとは言われていない

受け身の姿勢だと思われるだろうか。
でもやる気を出して張り切ったところで、朝オフィスに入った瞬間からどんどんモチベーションは下がっていく
そして思ってしまう「帰りたい」
この3ヶ月でだんだんわかってきたのは、先生たちとの温度差である。
決して悪い人たちではない
心優しい、温かい人たちだ。
でもやはり、違和感は消えない。
それもそのはず。同じ教育者とはいえ、彼ら自身育ってきた環境、見てきた景色、学んできたことも、その学び方自体も違うのだから。
ここでの「当たり前」にちょっとずつ慣れてきた。
けどその分「まぁいっか」
怠惰ともとらえられる感情が出てきたのも事実だ。

いる必要ないんだったら帰っていい?
てか子どもたちも学校に来る必要ないなら解散させたら?

そんな腐りかけた私の心を引き戻してくれるのは、いつだって子どもたちだ

昨日もそう。オフィスにいるのが耐えれなくて外を歩いていたら子どもたちが来て「教室きて!教えてよ!」と言ってくれた


時間割はあるものの、それが完全に機能しているわけではない。
教室に先生がいないとき、子どもたちは好き勝手やっているか、先生に怒鳴られたあとで、みんなうつ伏せで寝ている。
そんな状態だから、暇な子どもたちはただただ相手して欲しいのか、本当に勉強したいのか、気に入られたいのか
理由はわからない。でもどんな形であれ求められるのは嬉しい。

スケジュール上の算数の時間以外の時間でも、子どもたちの様子を見にいっているが、それを先生たちにどう思われているかはわからない

押し付けるのは嫌だ。
だから子どもたちがやりたくない、遊びたいって言うんだったら、それでもいいと思っている。
でも、もしちょっとでもやってみたいとか、見て欲しい、頑張ってみたいって気持ちがあるのであれば、そこをどんどん伸ばす手伝いができたらと思う。

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ついさっき押し付けは嫌だと言ったが
子どもたちにどんな人になって欲しいのか、教育者の一人としてそれなりに思うことはあるわけで

温かい子とか、優しい子とか、夢に溢れた子とか、いろいろ言葉はあるかもしれないが

こっちに来て過ごす中で思ったのは
「『ありがとう』と『ごめんなさい』が言える子」

子どもだけじゃない、大人もあまり言わないんじゃないかと思う。

この国の挨拶の文化の根付き方はレベルが高いと思う。
日本だったら「こんにちは」、
これ、なんならお互いじゃなくても一方的に言っても意味が通じる。
でもこの国ではだったら
「Hujambo?(直訳:問題ない?)」「Sijambo(問題ないよ)」
「Habari za leo?(今日の調子はどう?)」「Nzuri(いいよ)」
「Zima?(元気?)」「Zima(元気だよ)」
「Mambo?(日本だと友人同士の「おっす!」的なノリ)」「Poa(典型的な返し)」
あいさつが全部疑問系なのである。そして毎度3、4往復が当たり前

すごく素敵だと思った

でも、そこに心は本当にあるのかと思うようになってきたここ最近

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こちらでは、子どもが親や先生の手伝いをするのは当たり前である
家事だけじゃない
学校で先生のご飯を買ってくる、おやつ的なものを買ってくる、椅子や机運ぶ、ノート運ぶ
最初はそのこき使う感じもびっくりしたが、今では慣れてきた
こういう文化なんだ。
悪いことではない。せっせと動ける子どもたちには感心する。
でも、それでも納得いかないのは、
動いてもらったあとに先生が言う「Basi, nenda.(結構、行ってよし)」
・・・
当たり前なんだろうけど、当たり前って怖いなと思った

高校の時、学年集会で、クラスの代表一人ずつ、年の初めに今年の抱負的なものを話すことがあって、そのうちの一人が話していたこと

「『当たり前』の反対は、なんだと思いますか?」
彼は私たちに問いかけた

挨拶して「当たり前」、一緒に学校行って「当たり前」、一緒に勉強して「当たり前」、(バスケ部だった彼は)パスをしてもらって「当たり前」、ご飯作ってくれて「当たり前」、洗濯してもらって「当たり前」

彼は言った
「僕は『当たり前』の反対は『ありがとう』だと思います」

挨拶してくれて「ありがとう」、一緒に学校行ってくれて「ありがとう」、一緒に勉強できて「ありがとう」、パスしてくれて「ありがとう」、ごはん作ってくれて「ありがとう」、洗濯してくれて「ありがとう」

同級生のその考え方にすごく感動したのを覚えている
そして今でもその考えは私を助けてくれる。

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こちらの人たちはあまり「ありがとう」と「ごめんなさい」を言わない

「ごめんなさい」よりかは「許してください」という言葉を言う。
いや、それさえも少なかったりするかも。
すぐ「Pole(ポーレ:お気の毒さま)」を使う。
いや、あなたのせいですけど。って突っ込みたくなる
ニュアンスの違いなのかもしれないが、
正直こっちとしては「許してください」よりもシンプルに「ごめんなさい」と言って欲しいなって思ったりする。
許すどーのこーのではない、「相手を傷つけた自覚」があったときに「ごめんなさい」が出てくるんだと思う。
子どもの間で喧嘩は日常茶飯事。とはいえ相手を傷つけることは当然見逃せない。
「自分が相手を傷つけた」その自覚が持てるようになったとき、相手の気持ちがわかるようになると思うし
「ありがとう」の大切さがわかったら、自分の行動も変わってくるんじゃないかと思う。
毎日子どもと全力で向き合う
私にできるのはそれくらいだ
本気で怒るし、本気で遊ぶし、本気で教える
子どもの行動で本気で喜ぶし、本気で悲しむこともあるし、本気で子どもたちに頼ることもある。
その中で私が失敗したり間違ったことをしてしまったら本気で謝ると思うし
逆に本気で感謝もする

不器用な私は先生方から頼ってもらえるような人材になれそうにはない
ここの先生たちは十分プロだ
私の役目は「こんな先生もいるんだよ」と示すことくらいか
それでもいい。彼らが大きくなって、子どもができたとき
ただの召使のようにこき使って「当たり前」じゃなくて
助かってるよ、「ありがとう」を伝えることで
優しい空間が少しでもできたらいいな
スケールでかいかもしれないけど
私の野望、とでも言っておこう。

とはいえ、私は私でイライラすることも増えた
それは自分の中で気付かぬうちに「当たり前」を作ってしまっているから。
タンザニアに来れたことも、ムリマニ小学校に来れたことも、先生方に出会えたことも、一つのクラスを任せてもらえたことも、子どもたちとたくさん笑えていることも、同期隊員5人で生活できていることも、大家さんがいつも気にかけてくれてることも、村の人たちがいつも挨拶してくれることも

全部感謝すべきだろう。いや、感謝したい。

ありがとう。Asante.

さーて、がんばるか。

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