ちがう世界観を知る。

「手向くるや(たむくるや)むしりたがりし赤い花」 小林一茶

一茶の幼い娘が亡くなったときの句です。
「あんなにむしりたがった赤い花をお供えするよ」というような意味だそうです。

摘んじゃいけない赤い花って彼岸花(曼珠沙華)かな?
(ググってみると「秋風やむしりたがりし赤い花」という句もでてきます。そこでは赤い花は彼岸花と説明されてました。)

『社会学入門ー人間と社会の未来』見田宗介(岩波新書)によると、
現代人がこの句をいまいち理解できないのは、
「世界のあり方、存在するものに対する感覚が、現代とは全く異なっている世界を前提としているからです。」だそうです。

例として、アメリカのネイティブの方(ホピ族)は、「時間」というコンセプトはなく、「顕在態(オモテの世界)」と「潜在態(ウラの世界)」という二つの態様が、世界のあり方の基本的な枠組みなんだそうです。

なんかちょっとムズカシイ……

「花」って、緑の茎と葉の先に、いきなり赤や黄色や青の花が咲きます。
考えてみるととても不思議なことです。(……とえらそうに言いながら、私はこの本を読んで「あ、確かに!」と気づきましたwww)

「「ウラの世界」があると感覚していた時代の人間は、あの美しい色は「ウラの世界」に潜在していたと感じたにちがいありません。
    (中略)
 「聖なるもの」は、当然この世のものではなく「あの世」「かくり世」「ウラの世界」に属するものです。」

「花」は「ウラの世界」のものが「オモテの世界」に現れてきたものと思われていた。

全然世界の捉え方、感じ方が違うんですね。そんなこと考えたことなかったのですが、でもちょっと想像できる感じがします。



この世界観があって、一茶はこの句を読んだんですね。

「日本でも江戸時代まではたとえ幼い子供であっても、花をむしることは止められていた。死んで「あの世」の存在となったときに初めて、花は手向けてもらえるものだった。あんなにもむしりたがっていた花だよ。今やっとお前に手向けてあげることができるよ。と、一茶は最愛の娘に話しかけている。」

なにか心にくるものがあって考えていました。
まず、この句の悲しさがあります。
それに加え、150年くらい前の日本人はきっと当たり前にもっていた感覚を、今の私が「そうだったんだ」と知る変なずれというか喪失感のようなものを感じています。

そしてこのことを知り、少し違った目で花を見る自分がいます。
いま私が持っている感覚や知識は絶対じゃないよってこと、覚えておきたいと思います。

……すいません。ちょっと重たい話だったかもしれません。
昔はそうだったんだな~というくらいで読んでもらえるとうれしいです。

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