夢おいびと

私は物心ついた頃からネガティブで、最悪の想定をしながら生きてきた。友達と遊びに行っても何を話せば良いかわからないから、という理由で唯一の友人としか遊ばない児童だったし、たった5分の学校までの道のりが分からないからという理由で学校に行かないような生徒だった。
中学3年生のころ、自分で自分を息ぐるしくしていることにようやく気づいた。それからは、見よう見真似でポジティブを演じるようになった。とにかく明るい子の振る舞いを見て盗み、実践と反省を繰り返す日々だった。「明るくて悩みもなさそうなお気楽なあの子」そう思われるよう、必死だった。

自分を演じるようになってから、周りにも自然と明るい人が集まりはじめた。"類は友を呼ぶ"を体感することができた。もちろん、故意にアホらしいことをする自分に呆れることは日常茶飯事だ。それでも、楽しい人に囲まれ愉快だと思い込んでいる方が楽だったし、きっとあれが正解なのだろうと思っている。


そんな私にはどうしても我慢できないことがある。ただ夢を語る人の話を聞くこと、だ。

夢を持つのもそれを語るのも本人の自由だというのは十分理解しているし、私がどうこう言うべきでないということも分かっているのだが、その夢をかなえるための努力をしていない人が語っている姿だけは許せない。どうしても、「こういうことをしたい」だとか「こういう人になりたい」だとか、そういったことを考えるのはいいが、それを実現するために必要なことを考え、行動したらどうかね?とお節介ジジイみたいなことを思ってしまう。リアリティのない、空想の話のテイならまだ笑って話を聞けるが、電車の広告で紹介されている本のような抽象的で胡散くさい夢を真剣に語っている姿は、とても滑稽だと思う。そんな姿に身震いしながら、そんな態度しかできない自分のことも甚だ嫌になるのである。

友人がそういった類の話を始めると、自然と私の耳は膜で覆われ、口角はある程度ゆるんだところで固まる。「いいね」と心にもない言葉が口を滑る。この人はただ夢の話をしているだけだ、私よ、どうか安らかに、と気を静める。体中の細胞を使ってその話題から話をそらすことに全集中する。ようやく成功した。ミッションクリアだ。
そうした場面に遭遇するたびに、幾度となくこうしてやり過ごしてきたのだが、仲がいい人であればあるほど受ける衝撃は大きい。自分が気持ちよく夢を語っている時に、相手がこんなことを思いながら話を聞いているかもしれない。貴方の想像力を持ってすれば、こんなこと容易に思いついたはずでしょう?

話が大きくそれたが、私が無理やりポジティブを"する"弊害として感じるのは、こういった夢語りに直面することが多くなったことだ。アホらしいと思う時間が増えたことは楽しいことかもしれないが、身の毛がよだつような話を聞く時間が増えて、良いはずがない。人の夢を聞くことにつかれた私は、久しぶりにネガティブな人と仲良くなろうと考えた。ネガティブな人の方が世界を広く見ていて、その分大きな器を持っているんじゃないかと思っていたのだ。


久しぶりに仲良くなったネガティブなその人は、いい感じにやさぐれている。平日は仕事に体力と思考力の大半を奪われ、休日はその反動で遊びに出る。私はその人のこだわりがあるところが好きだった。音楽や洋服、趣味は違えど美的感覚に基づく自分なりの境目を持っているところに惹かれた。
私のことをとても気遣い、優しくしてくれる人だった。だんだんと冗談も愚痴も話してくれるようになった。少しずつ気を許してもらっているような気がして、嬉しかった。

距離が縮まり、2人で何度も出かけるようになると、徐々に様子がおかしくなってきた。
社会の不憫さや会社への不満、何より、可哀想なぼくについて話すことが多くなった。私に対して甘えることも多くなった。
何なんだろう、この違和感。
どうにもこうにも上手く言葉にできなくて歯痒い。
強いて言えば、スーパーで子どもが、お母さんだと勘違いして間違えて自分について来ちゃった時の気持ちかもしれない。決して嬉しくないわけじゃないんだけど、間違えてるよ、私じゃないんだよ、という気持ち。その人と話していると、そんな気持ちになることが増えた。

ここまで来ると、私は恐怖を感じ始めていた。今まで上手に甘えられなかった人、いざという時甘えられる人がいないの人の甘え方ほど怖いものはない。これは過去の経験から学んだことだ。これを知っているからこそ、甘えることにも甘えられることにも怯えている自分がある。無条件に甘えてくる人、こちらの予想に反して甘えてくる人には、どうしても不安を抱くし、距離を置きたくなる。



この人との関係を全て終わらせてから、2年以上経った。
今思い出してもおそろしい思い出だ。
離れて正解だったぞ、わたし。

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