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わたしを幸せにしてくれる人 ①

写真:ブリキボタン

高校3年生の春、それまでの人生でたぶん1番大切にしていたのが母だった。

母は寛容な人だった。自分の至らないことを自覚していて謙虚だった。母は常にわたしの行いに理由を求めたので、なぜそれをしたのかをいつも考えさせられた。だからずいぶん理屈っぽい小学生に育った。やりたいことはなんでもやらせてくれ、習い事も片端から行った。飽き性なので続いた試しはなかったが、その度に行きたくないなら行かなくていい、と許してくれた。

母は感情豊かな人だった。母が楽しい時は部屋が華やぎ、怒れる時は皿が割れる。

小学1年生のとき、妹ができて母の愛情を盗られたと思った。夜寝る時に不貞腐れて、妹の方が可愛いんだ、と母に伝えたときの、心底悲しい鬼のような形相。なんでそんなこと言うの!と泣きながら叩かれたとき、この人の愛情をもう二度と疑うまい、と思ったのを今でも鮮明に覚えている。

母の最大級の愛情を受けてすくすくと素直に育ったわたしは、いつしか母が喜んでくれることが人生で1番の幸せだった。

母は少しずつ体調を崩していった。

わたしが知らずにいた母の人生が、母を苦しめ、いつしか死にたいと思うようになっていた。特にご飯を作るときは最悪に体調が悪かったので、わたしは部活も友達も放り出して家にすっ飛んで帰り、ご飯作りの手伝いをした。

中学生、高校生のわたしは、学校で授業の合間はクラスの友達と過ごし、放課後は家に帰り夕飯の手伝いをして母と一日あったことを話して母が寝たら趣味の絵を描く…そういう生活を送っていた。

だから母の機嫌や母の幸せが私の人生の優先事項だった。


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