創価学会本部総会開催日をたどる

創価学会本部総会の開催日

創価学会本部総会の開催日を以下に記す。 

第1回 昭和21年11月17日 牧口常三郎の3回忌と併せて           第2回 昭和22年10月19日                      第3回 昭和23年10月17日                      第4回 昭和24年10月23日                      第5回 昭和25年11月12日 牧口の7回忌と併せて 理事長、戸田から矢島に 

昭和26年5月3日 戸田城聖、創価学会第2代会長に就任
昭和26年7月22日 臨時本部総会 創価学会常住御本尊奉戴式                第6回 昭和26年11月4日                       昭和27年4月7日 立宗700年記念の春季総会                      第7回 昭和27年12月7日                       第8回 昭和28年5月3日                        第9回 昭和28年11月22日                       第10回 昭和29年5月3日

第11回 昭和29年11月3日 秋季総会という名称に           第12回 昭和30年5月3日 春季総会という名称に            第13回 昭和30年11月3日 秋季総会                 第14回 昭和31年5月3日 春季総会                  第15回 昭和31年11月1日 秋季総会                 第16回 昭和32年5月3日 春季総会                  第17回 昭和32年11月8日 秋季総会                 第18回 昭和33年5月3日 春季総会(昭和33年4月2日 戸田城聖逝去)                  第19回 昭和33年11月9日 秋季総会                 第20回 昭和34年5月3日 春季総会                  第21回 昭和34年11月8日 秋季総会

第22回 昭和35年5月3日 池田第3代会長就任式            第23回 昭和36年5月3日 
第24回 昭和37年5月3日 
第25回 昭和38年5月3日 
第26回 昭和38年9月1日 新本部落成
第27回 昭和39年5月3日 
第28回 昭和40年5月3日 
第29回 昭和41年5月3日 
第30回 昭和42年5月3日 
第31回 昭和43年5月3日 
第32回 昭和44年5月3日 
第33回 昭和45年5月3日 言論出版妨害事件を謝罪                      昭和45年11月18日 創立40周年談話(和泉理事長)

第34回 昭和46年11月2日 
第35回 昭和47年11月2日 
第36回 昭和48年12月16日 大阪にて開催
第37回 昭和49年11月17日 愛知にて開催
第38回 昭和50年11月9日 広島にて開催
第39回 昭和51年10月24日 札幌にて開催
昭和52年、昭和53年は創価学会本部総会は開催されず          第40回 昭和54年5月3日 北条浩が第4代会長に就任、新体制に
 
以降、創価学会本部総会という名称の会合は開催されず
(創価学会年表、年譜池田大作、三代会長年譜による)

本部総会開催日から垣間見える各年代の特徴

 創価学会の本部総会開催日をたどると第1回総会が昭和21年11月17日、これは牧口の三回忌と併せて行われた。以降昭和27年の第7回までは10月から12月の間に行われ、昭和28年からは戸田の会長就任日の5月3日に春季、11月に秋季総会となる(第21回まで)。池田会長就任後は年一回開催に戻り、5月3日の総会が昭和45年まで続く。昭和45年11月18日に創価学会創立40周年の談話を和泉理事長(当時)が発表し、翌年から再び11月頃に総会を行うようになる。

 池田会長就任以降の創価学会が牧口の逝去した日である11月18日よりも戸田、池田両会長就任日の5月3日を重視してきたことは本部総会開催日をたどれば明らかだといえよう。昭和45年11月18日に唐突に創立40周年を宣言し、11月18日が創立記念日であるとした和泉理事長(当時)談話は、牧口の獄死と書籍刊行日の符合が劇的だったがゆえにその日を創立記念日とし、牧口・戸田を反戦平和の闘士だとして大々的に宣揚し、もって前年から社会問題となっていた創価学会が引き起こした言論出版妨害事件(創価学会や公明党を批判する著作に対し著者や取次、書店に圧力を加えて出版を妨害した一連の事件を指す)で大きく低下した創価学会の社会的評価の回復を図ったのだろう。昭和5年11月18日が創立記念日であると昔から会内で認識されていたわけではなく、昭和45年になって初めて言われ出したいわば後付けとでもいうべきものだったのではないか。

 そのことは牧口、戸田が必ずしも戦争に反対していた訳ではなかったこと、創価教育学会時代の昭和15年は創立10周年どころか組織としての体裁をようやく整えつつあった時期だったこと、創立20周年のはずの昭和25年も戸田が理事長を辞任して20周年を祝うどころではなく、池田会長就任の年の昭和35年すら創立30周年という表現は見当たらないことから、それこそ昭和45年かその前年あたりで創価学会の歴史の編さんの必要性が意識され、創価教育学体系の発行日とされる昭和5年11月18日を創立記念日だとして牧口、戸田の歴代会長を反戦平和の闘士だと大々的に宣揚すれば言論出版妨害事件で低下した創価学会の社会的評価の回復を図ることができるとしてこの頃に創立記念日を決めた、多分に作為的な演出を含む創立記念日の設定だったと筆者は考えている。創価学会年表にも創価学会史の編さん委員会の発足が昭和45年1月29日、創価学会40年史の完成が昭和46年3月16日とあり(同書614頁、686頁)、筆者の推測はあながち的外れなものでもないと思う。

 その後昭和46、47年は11月2日に第34、35回総会を行い、翌年からは地方開催が続き昭和48年12月16日、第36回総会を大阪で、昭和49年11月17日、第37回総会を愛知で、昭和50年11月9日、第38回総会を広島で、昭和51年10月24日、第39回を札幌で開催した。昭和52、53年は本部総会は開催されず。第40回総会は昭和54年5月3日、北条新体制の下で行われた。総会開催日をたどってみて不開催の年もあり驚いたのだが、特に昭和47年以降、正本堂建立の意義付けを巡り妙信講(現在の顕正会)と激しく対立し、昭和49年には創価学会本部建物内に侵入、襲撃されるといった事件すら起こっていたので日付や場所が容易に推測できる会合は避ける必要があったのかもしれない。また宗門との不協和音も総会を開かなかった一因だったのではないかと思う。

 昭和54年以降は本部総会という名称の会合は行われていないようだ。三代会長年譜によれば、5月3日を創価学会の日、11月3日を創価文化の日(昭和52年以降か)、11月18日を創立記念日(昭和45年以降)として会合等が行われている。本部総会の開催は昭和54年5月3日の第40回総会を最後に行われた形跡がない。調べてみると大白蓮華昭和54年6月号記載の第40回本部総会における森田新理事長挨拶で、本部総会は同年新たに制定した創価学会会則には明記されず、それは毎年度の基本方針を総務会で審議、決定し、その発表の場は本部幹部会などで行うことによるものだとして、「学会の歴史の区切りを示すような特別な場合に記念総会を開きますが、これまでの年次総会の意味を持ってきた本部総会は、今後は開催されないことをご了承願いたい」と発言している。会則に明記されないから、総務会での決定は本部幹部会等で発表するから、というのは本部総会をそのように位置付ければよいだけの話で、開催しない理由にはならないのではないか。以後、年一回の本部総会は開催しないという判断が先にあっての形式的な理由付けに思える。

 ではなぜ、昭和54年以降は年次総会としての本部総会を開催しないことにしたのか。三代会長以降の会長には創価学会本部総会を開催する資格がないということを意味するのか、それとも、宗門の法主や僧侶を来賓として迎える会合を開きたくないといった思惑だったのだろうか。以降は開かないとの言明があるからには理由もあったはずなのだが、形式的な理由しか述べられていない以上、真の理由探しは今後の宿題として一旦この稿は閉じておこうと思う。

 注1 創価学会本部総会開催日については昭和21年から昭和49年までは創価学会年表を、昭和50年から昭和54年までは年譜池田大作を参照した。11月18日が創立記念日だと宣揚しだしたのは昭和45年以降だということについては「創価学会秘史」と、創価学会年表の昭和5年から49年までの11月18日前後の記述からそう判断した。

 注2 創価学会本部総会の開催曜日については極力日曜日か祝日に行うように開催日を設定していたことが窺える。昭和27年の立宗700年記念総会が月曜日、5月3日、11月3日に行われた総会が祝日であることを除くと平日開催は昭和31、32年の秋季総会、昭和46、47年だけであとはすべて日曜日に行われている。

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