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”できるできないでなく、やるかやらないかで世界を変える”という言葉がなぜ生まれたのか?

今日は、多くの方々に口ずさんでも頂いている、サムライインキュベートの大好きな理念でもある、”できるできないでなく、やるかやらないかで世界を変える”と言う言葉が生まれた原点の話ができたらと思います。実はあまりしっかり話せてなかったので、しっかり共有したいと思います。

まずは、23年前まで遡ります。

1997年最初の僕の就職先は日本光電工業と言う医療機器メーカーで、職種は営業マンでした。心電計、脳波計、AED、ポリグラフなどは日本でトップシェアの会社です。今はかなり変わっていると思いますが、医療業界のお客さん(先生)と営業マンの立場の差は本当に大きく感じ、同じ立場で提案するということは皆無に近かったです。常に上から目線で見られている、対応されている感じが日々しました。当時の自分の自尊心は崩され、本当に本当に本当に辛かったです。でも、ずっと医局の前で立ってらっしゃるMRの方々と比べれば全然大したものではなかったとも今は思います。

ただ、今思い返すと、初めての社会人だった、そして本当に自分がやりたい仕事だと確信がないまま、社会人になってしまったので、余計にそういった部分の怖さを感じすぎていたのかもとも感じます。

でも、実は今、サムライのみんなのおかげで、最初の就職先の日本光電(東証一部の大手企業です)の社長様とは連絡し合う仲でして、そのご縁はやはり大事とも痛感しており、日本光電の経験も今に生きています。

その当時の同じ立場で提案ができない悔しさ、辛さ、悲しさが、今のサムライインキュベートのどんな大きな企業であれ、どんな小さなスタートアップであれ、同様な立場で提案ができているのは、そこが根本にあり、僕の拘りが関わっているのかも知れません。

その頃の自分は、日本光電で真摯に、その状況に対峙することもできず、土日はフリーマーケットでポストカード専門店をやって、自分で撮影した海外の写真をポストカードにして売って(過去最高の日で1日500枚売れましたw)、その平日の辛い環境から逃げており、本当の自分が何なのかを探していました。でもちょっとだけそのフリマでの活動が自分に自信をつけさせてくれたかもしれません。そのポストカード屋さんの名前は”Talisman”(訳:護符、お守り、不思議な力のあるもの) でした。まさにその時の自分自身のお守りだったかも知れません。

実は、会社をつくるときに、サムライインキュベートでなく、Talismanって名前にしようと思ったんですが、すでに商標か同じ会社名があったので諦めたことも覚えています。これもあまり話していないことですが、今は、本当に”サムライインキュベート”にしてよかったと確信しています。但し、起業家や企業含め我々と関わる人たちの”お守り”的な存在にサムライインキュベートがなりたいという意味合いが根本的に込められています。

そのフリマのポストカードを作成するにあたりPCを活用していたんですが、そのついでに、チラチラっとインターネット(まだISDN時代)で、サイバー藤田さんのブログやらで、新しく来るだろうネットの世界に触れ始め、この新しく来るだろうこの世界であれば、今働いている上から目線の環境を脱し、本当の自分が見つけれるんではないかと思い始めます。

そして、1999年12月末頃に、転機がきます。

アクシブトットコム(現VOYAGE GROUP)との出会いです。雑誌か何かでプレスリリースを見て応募しました。その当時色々なネット黎明期(渋谷がビットバレーと呼ばれた頃)の会社に応募しまくりました。サイバーエージェント(当時25名くらい)、ヤフー(当時50名くらい)、クレイフィッシュといった光通信系。そこで面接まで行けたのが、アクシブトットコムとサイバーエージェントでした。アクシブは僕が5人目入社で、初めての外様第一号でした。他は皆んな友人達の創業メンバー集まりでした。

VOYAGE GROUPの宇佐美さんには、今でもずっとお世話になっていますが、その宇佐美さん(当時:取締役)がその時の面談相手(最初から最終面談だったような)でした。アクシブドットコムには当時営業マンがいなかったので、日本光電での営業手法や工夫した話を必死にアピールした記憶があります。未だに、なぜ大阪から急に応募してきた、全然業界の違う医療機器営業マンであった僕を採用してくれたかは、未だに本当に謎ですが、ありがたかったです。宇佐美さんは熱かったからだけとはいつも聞きます(笑)。

ただ、自分の中に、全てを捨てて東京に来ようと思った切迫感はかなりあったかとは思います。

宇佐美さんが僕に人生を変えるチャンスをくれました。宇佐美さんがいなかったら、今の僕、そして、サムライインキュベートはないと思います。今でも本当に感謝しています。

そのネット黎明期のアクシブドットコムでの実体験が、今の理念の創出につながっています。その頃のインターネットの世界は、まだ誰もつくったことのない世界でもあり、過去の経験・実績とかは、本当に関係なく、誰もが同じ立場にある状態でした。むしろ、インターネット=2chとかのイメージも強く、悪の世界のイメージも強かったです。僕はそんな中で、ただただ、ひたすらに電話で”僕にチャンスをください!僕にチャンスをください!”とアポを取りまくり、外に出まくりました。特に売るものも決まってなくて、どういう商品をつくったら、買って貰えますか?どうしたら協業できますか?そんな毎日でした。今でいうと無意識で、ユーザーインタビューと仮説検証をしまくってたということでしょうか(笑)?

ただただ、めちゃんこめちゃんこ楽しかったんです。

本当に本当に、皆んな同じ立場で話を聞いてくれたので!憧れていたTV局、ラジオ局、芸能事務所、リクルートをはじめとした大企業、ベンチャー企業、いってみたい会社全部色々行きました。今はフジテレビさんとかも弊社ファンドの投資家さんになって頂いており、普通に通っていますが、その頃の自分から今のサムライを見たら本当に神に見えるかも知れません。そして、その楽しさと、インターネットの世界を我々がつくっていくんだ!という大きな使命感と、インターネットで大きく世界が変わっていく瞬間を日々肌で実感というか痛感しました。

その時、僕が働いていたオフィスは、僕らが新しいオフィスに移転した後に、イーマキュリー(現ミクシー)が入居しており、笠原さんとも最近改めてお会いもさせて頂き、感慨深かったです。

2000年3月に正式にアクシブドットコムに入社し、約1年半、休みなく突っ走り捲りました。会社に毎日行かないと新しい時代に追いつけなくなってしまうんのではという焦る感も強かったです。毎朝、芋虫のように寝袋に入っているメンバーを起こすことも僕の役割の1つでした。

結果、2001年9月、メンバーも40名近くなり、黒字化し、そして、サイバーエージェントに買収されました。

僕は、アクシブドットコムのことがとても大好きで、アクシブとインターネットの世界をリードし、変えていこうという想いが強かったので、当時、まだまだ大人でなかったこともあり、大きなショックを受け、卒業する決断をしました。当時のアクシブには、VCとして独立したばかりの赤浦さん(現VC協会会長)が筆頭株主(第1号の初めての出資先)でもあり、今は笑い話ですが、当時のアクシブ代表と、赤浦さんのことは当時めちゃくちゃ恨んでました。なんで売ったんだー!!!と。

でもその後、サムライでファンドをやるキッカケ・機会を頂いたのは赤浦さんであり、宇佐美さんと同様に、恩人・師匠です。赤浦さんがいなかったら、今でもベンチャー企業の営業代行会社だったかも知れないです。赤浦さんとは、今は兄弟みたいな関係です。


このアクシブでの実体験が、今の理念を生んでいます。

卒業すると決めた時、残されたメンバーに、ふと何かメッセージを残したいと思いました。おそらく、アクシブで休日仕事をしていた時かと思います。その時にふっと頭に出てきた言葉が、アクシブが僕にくれたこと

”できるできないでなく、やるかやらないかで人生は変わる”ことです。

本当に僕の人生をアクシブが変えてくれた、何もできない自分に自信をつけさせてくれた。こんなに大きく成長させてくれた。そして、インターネット業界も大きく変わった。そこから染み染みでてきたアクシブのみんなに対する感謝の言葉であり、みんな!変われるんだぞ!という激励の言葉でした。

”できるできないでなく、やるかやらないかで人生は変わる”というメッセージをオフィスの壁に貼り付けて、僕はアクシブを卒業しました。

その後、”できるできないでなく、やるかやらないか”は、後に、アクシブで、行動規範にもなりました。

これが、サムライインキュベートの今の理念が生まれが原点です。

そこに自分の人生だけでなく、世界を変えるんだと言う意志を入れたのが、”できるできないでなく、やるかやらないかで世界を変える”です。

過去を浸りがすぎで長くなってしました(3時間もかかりました汗)が、改めて自分の原点を省みることで、もう20年も経つんだなとか、もっともっと伝えていかない事が沢山あるなとか、まだまだやるかやらないかできてないなとか、世界変えれてないかとか、
もっともっと感謝しないとなとか色々な感情が湧いてきますが、そんな感じで、noteでも何かしら発信していきますが、暖かく見守ってください!

では、良い週末を!
from Ken

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