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曖昧は素晴らしいかもしれない

最近(半年近く)物事を言葉にする行為から遠ざかっていた気がする。と、不意に気づいたように言ってみたけど、それは意図的なものであった。だからか今さっき、久々に過去の自分のnoto投稿を読み返したらとても懐かしかった。猛烈に熱のこもった自分の残した文章から、その時に考えていた考え事、抱えていた悩み事が一気に脳内にフラッシュバックする、そんな感覚があった。と同時に、これらを過去に感じられる事自体が自分が少しだけ成長した証のようにも感じられた。
 はじめにも言ったが、近頃私は半端意図的に自分と言葉との間で距離を置いていた。自分に関わる物事の何もかもに言葉を当てはめようとする自分に、良い加減嫌気がさしたからだ。というのも、これまでは私と言葉との距離は非常に近かった。私の側にはいつも言葉がいて、私を落ち着かせた。ただその程度は異常なものと我ながら感じていて、物事を言葉にすることは私にとっては一種の"快感"だったようにも思える。悩みがある時に、それを言葉を使って"解決をしたい"というよりは言葉を使って物事を整理するという行為の過程や存在に対して私は重きを置いていて。それによって情緒を保つことができて、気持ちを潤わせていられた。それも、それをしたいというよりも、そうしないと気が済まない、平常心でいられないというような感覚があった。その分それを"考えすぎだ"の一言で他者に捉えられることが不本意で、違和感に感じていた。考えすぎるとか、普通とか、もっと考えた方がいいとか、そういう程度に種類があるものでなくて、その行為そのものが重要だったから。

ただ他者との交わりの中での自分の感覚の居心地の悪さは存在したけど、私が良ければいっかと思えていた。いつしか言葉から離れられなくなっており、固執するようになっていた。

この生き方を見直す大々的なきっかけとなったのが、心理学者や評論家を交えた某情報トークバラエティ番組を見ていた時のことだった。私はもともとこういった心理学の知識の詰まった番組が大好きで、ある種の信頼を寄せていた。(その理由も明快になっていて、自分自身の中で因果関係がハッキリしていて矛盾のない事象を好む傾向が強いからだと思っている。逆にいうと矛盾に対して異常なまでの不信感があり、その分に実験によって結果の元の取れている、根拠のある事柄に対しての信頼が厚いのも理由なのだと思う。)その番組は、毎回代わる代わるそれぞれのお悩みを抱えた芸能人ゲストを迎え、心理学者や評論家といった専門知識を持つ方々が様々な観点からアドバイスをするというもので。その時のゲストが誰だったのか、詳しい内容までは覚えていないものの、心理学者のある発言が私に響いた。

なんでもかんでも白黒つける人よりも、モヤモヤしている人の方が幸福度が高い

私から最も遠い状態"モヤモヤ"、自分がモヤモヤしている時は限りなくなかった。悩みこそあったが、何に悩んでいるのか分からないことはなかったし、常に脳内は整理整頓されていた。それによってモヤモヤが完全に払拭されていたわけではないが、自分にとってのモヤモヤは自分が何に悩んでいるのかが自分で分からないことやその事柄に忖度なしに真正面から向き合えていない状態のことであって悩みの存在ではなかった。こうあるべき、こうあるべきでないを自分の中で分類することで満たされていた。が、この心理学者から次々に発される発言にそうも思えなくなった。

人生ですごく幸福に生きている人
=曖昧さへの忍耐力が強い人

グレーの状態でいられる人というのは、白黒区別しようとする人よりも忍耐力が高いのだそうだ。曖昧を楽しめる人ほど幸福度が高いとも言っていた。端的に、心理学的に見ると私は幸福度が非常に低いのだ。
 
 根拠のある話に対して強い信頼を持っている私はその日から考えること(私の場合は白黒つけること)から遠ざかった。と同時に考える時に使っていた道具"言葉"からも遠ざかった。日々をこれまでよりも曖昧に生きた。
ここ2、3日の話ではないけど、慣れたか?と言われたら実は落ち着かないし、慣れたつもりになっていたのだと思った。その証拠に今、言葉を使って心情を書いていて久々に地に足がついているような感覚に襲われているからだ。曖昧を曖昧のままに放置して通り過ぎているとき、地に足をつくことの安心感を知りながら無重力の中にいるような気がしていた。奥の歯に挟まっているものを放置しているような歯痒さがある。けど、自然と気持ちは明るい。考える=自分と自負している部分があったから、それから抜け出すことは自分を空っぽにさせるのではないかという物足りなさもあるが、曖昧の素晴らしさは確かに実感した。景色が少しだけ変わった気がする、いままでは考えなくていいことまでも考えていたのかもしれない、そう思った。どうでもいいと投げ出すことは決して悪いことではないと気づいた。それでも考えたいことがあればそれは別に考えればいいし、考えることも悪いことでない。全ては考え"すぎたら"の話だ。曖昧でいる間は手を抜いて生きている気分もあった、が気持ちは自然と軽かった。

総じて言いたかった事は、曖昧は素晴らしいかもしれないということと、やっぱり私は言葉が好きだということだ。

今回の写真は全て、先日友達と夜中に7時間散歩をした時の写真。フッ軽な友人とその場で決まった衝動で夜道を歩く時にはそこはかとない開放感がある。今の私の気持ちと似ている。

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