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価値観の中に我を見る

"価値観"と私の話。
ここ半年近く、何度"価値観“という言葉を使って物事を考えただろう。何度"価値観"という高い壁の前に立ち尽くすことがあっただろうか。その度に、同じことを良いと思い、同じことを良くないと思える相手。同じことを楽しいと思えて、同じことを素敵と思える相手。彼らとその存在の事実の眩さに何度心の居場所を見つけることができただろう。私の中の常識がこの世の常識ではないこととの葛藤や、それでもなお大事にしたいと思える自分自身の感性。"それは違うよはなちゃん"と言われて自分自身を否定されたような胸がジリジリする感覚と、"それは違うよはなちゃん"と助言してくれる相手の存在にこの上ない有難さと。

人と人とで違って当たり前の価値観を前に、押し付け合うことはよくないけれど、相手を知らずして気持ちだけを大きくすることは最もに愚かなことだとも思う。押し付け合うのではなく共有すること、互いに認め合うこと。互いに互いを譲歩すること。そうでなければ、干渉せずに放置すること。時に相手が道を逸れたと感じたらそれを静かに告げること、時に声を荒げて示すこと。それをする勇気や心持ち中にこそ、ほんとうの"愛"の芽生えを感じることができるのだと思う。

価値観という言葉に心を掴まれた春。言葉にできなかった全ての事象に当てはまる言葉を見つけた感動と心地よさに胸が躍った。ああ、これが皆の言う"価値観"というものかと。歯痒い気持ちから解き放たれて、一気に心が解放された感覚に気持ちが晴れた。この桜よりその後の葉桜が好きと思う人、私以外に何人いるのかな。

価値観という言葉を確かめ合った夏。あれやこれやと物事を見つめ、人との捉え方の違いから自らを初めて意識した。価値観というグラスで乾杯をして、自分と相手とを確かめ合った。グラスのぶつかる音に高鳴る鼓動を感じながら、体は小さく震えていた。静かに思う、自分のグラスがやはり良いと。

価値観という言葉に心が踏み躙(ニジ)られた秋。価値観の違いが人と人との溝を深くする事を知り、同時にそれが自分の力ではどうにもならない事を知る。絶望した。価値観は価値観でしか無く、"正しさ"では決してないことが、コトを複雑にさせる。あくまで各自の各自による尺度であり、そこに絶対はない。もう半袖を着て外に出る気軽さは味わえなくなった。帰ってこい、夏よ。

価値観という言葉に振り回されていたことを知る冬。素直な心で物事や相手を見ることを忘れていたということに気づいてハッとする。価値観はぶつけ合うことが全てじゃない。それは共有するべきもので、干渉の道具ではない。時に意識から遠ざけるもの。あの時一緒に食べたご飯の味を忘れちゃいけない。あれは確かに本物だ。

次にはどんな春が待っているのだろう。今の季節はなんだろう。21歳とは若気の至りがまだ許される歳なのだろうか。隣に座る君も、離れ離れになった君も、明日に会う君も、何を思っているのだろう。

春が過ぎ去る前に、心の整理をしたかった。

自分の目に映る事象だけが真実で、それ以外は幻。幻を真実のように扱うことが、現実をも幻の世界へと誘なうことに気づかないといけない。人伝いに知った事象に憶測を働かせること、それに体力を奪われるのは時に不毛なこと。

ただ自分の尺度で測ったものだけがこの世の真実ではない。幾度となく他者のそれと擦り合って、時にはぶつかり合って粉々になる。その後にはその破片を必死に拾い集めて、太陽の光に透かしてみる。その先に見えるものを大事にしたい。視野の狭さは心の狭さと思う。

されど、人の生き方はそれぞれの自由。口出しはできない。皆、それぞれ心地の良い生き方を探そう。

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