「自学のススメ」2.ボストン市庁舎
株式会社ホルグが運営する「地方公務員オンラインサロン」
僕は会員として、講演を視聴したり、サロン内でメンバー同士で意見交換したりで、とても大きな恩恵を受けています。
そのオンラインサロンにて、映画『ボストン市庁舎』が特別招待的に視聴できる機会がありました。せっかくだからと視聴してみたところ、これが相当に衝撃的で、市職員として考えさせられることに溢れていたので、今回はこの映画について紹介します。
なお、先に告白しておきますが、時間の都合で映画全体の7割程度までしか視聴できていません。それでもnoteに記録として残したいと強い想いが生まれたので、ここで記録に残すものです。
『ボストン市庁舎』
この映画の概要については、渋谷BunkamuraのHPに詳しく載っていたので、そちらを引用紹介します。
『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』で知られるドキュメンタリー界の生ける伝説、フレデリック・ワイズマン監督。その新作の舞台は、米マサチューセッツ州の“ボストン市庁舎”。多様な人種・文化が共存する大都市ボストンは、ワイズマンが生まれ、現在も暮らす街でもある。
カメラは飄々と市庁舎の中へ入り込み、市役所の人々とともに街のあちこちへと興味のままに動き出す。そこに映し出されるのは、警察、消防、保険衛生、高齢者支援、出生、結婚、死亡記録、ホームレスの人々の支援から同性婚の承認まで数百種類ものサービスを提供する、知られざる市役所の仕事の舞台裏。市⺠の幸せのため奮闘するウォルシュ市⻑と市役所職員たちの姿から浮かび上がってくるものとは……。
今コロナ禍で問われる「市民のための市役所」とは?
多様な人種・文化が共存する大都市ボストンを率いるのは、アイルランド移民のルーツを持つ労働者階級出身のマーティン・ウォルシュ市長。2018~19年当時のアメリカを覆う分断化の中、「ここではアメリカ合衆国の問題を解決できません。しかし、一つの都市が変われば、その衝撃が国を変えてゆくのです。」と語る市長と市職員たちの挑戦を通して「市民のための市役所」の可能性が見えてくる。それはコロナ禍で激変する日本社会に暮らす私たちにもますます切実な問題だ。
私たちが知る<お役所仕事>という言葉からは想像もできない、一つ一つが驚きとユーモアと問題提起に満ちた場面の数々。ボストン市庁舎を通して「人々がともに幸せに暮らしていくために、なぜ行政が必要なのか」を紐解きながら、いつの間にかアメリカ民主主義の根幹が見えてくるドキュメンタリーが誕生した。
<フレデリック・ワイズマン監督の言葉>
『ボストン市庁舎』を私が監督したのは、人々がともに幸せに暮らしてゆくために、なぜ行政が必要なのかを映画を通して伝えるためでした。『ボストン市庁舎』では、アメリカがたどってきた多様性の歴史を典型的に示すような人口構成をもつ米国屈指の大都市で、人々の暮らしに必要なさまざまなサービスを提供している市役所の活動を見せています。ボストン市庁舎は、こうした市民サービスを合衆国憲法や民主主義の規範と整合のとれるかたちで提供することを目指しています。ボストン市庁舎はトランプが体現するものの対極にあります。
徹底した対話と意見聴取
この映画では、対話の場面が”何度も何度も”繰り返し出てきます。この映画を見ただけで判断してはいけないのでしょうが、政策における意思決定過程において、住民の意見を広く吸い上げ・・というよりも、行政は住民と一緒になって物事を進めていこうとしている姿勢が非常に強いだろうことは確り伝わってきます。
ボストン市の対話の場に関して、僕が特に感じた特徴は次の3点です。
①対話の場において、誰が市職員なのか分からないことがあります。それほどまでに、住民と行政が一体になって物事を進めていくという姿勢が徹底されているように感じました。
②対話の場の参加者は、お互いの意見をじっくりと聴く姿勢ができています。話を途中で遮るような発言をせず、しっかりと相手の主張を聞き入れた後に自分の考えを述べています。これに気づいたとき、静的な衝撃を受けました。
③対話の中で、弱者への配慮が当たり前のようになされています。それは、行政側が仕事として配慮するというよりも、住民同士として弱き者に手を差し伸べるのは至極当然といった雰囲気です。
そして総じて、行政側スタッフも住民も、対話のトレーニングがしっかりとなされている印象が強いです。これは、
・アメリカ合衆国内で教育を受けたからなのか?
・それとも、ボストン市で教育を受けたからなのか?
・または、ボストン市がこうした場を繰り返し持つことで鍛えられたのか?
その辺りは残念ながらわかりませんでした(もしかして、映画終盤に解説があったかも知れませんが・・)。
環境の違い
ここからは、あくまで僕の推論です。違ってたらごめんなさい。
あれだけ対話慣れするには、そうしなければコミュニティが成り立たない社会的背景があったのでしょう。先住民と入植者との間の争いから始まり、その後も人種差別や大量の移民流入、大きな貧富の差。過去から今にかけてそうした積み重ねがある環境におけるコミュニティ運営には、対話のスキルが必要不可欠であったのだろうと推測します。
それに比べて、日本は、空気を読む、阿吽の呼吸、など対話が無くとも何とかできるし、しかもそうしたスキルある方が逆に重宝されるような環境に感じます。
DXを進めようとした時、先進国としてエストニアの例がよくあがりますが、あの国は地政学リスクによって電子化を進めなければならない強烈な背景があったからこそできたところがあって、日本が同じように強引に電子化を推し進めることはきっとできない。それと同じ事が、対話におけるボストンと日本だと感じてます。
やるか、やらないか
日本の市役所がアメリカのそれと比べて市民のために仕事をしてないような煽りが映画紹介の中でされていますが、そんなことはないと断言したい(希望込み)。少なくとも、自分が知る範囲では、昔と比べてのほほーんと仕事している職員なんて殆どいない。
日本の市役所の職員は、世界的に見ても少ない人数で、(効率が悪い面は多々あるけど)住民のためにマジメに働いていますよ。
地方公務員数が最も多いのは「アメリカ」
調査対象国5ヶ国のうち、最も「地方公務員」の数が多かったのはアメリカで、約1876万人と桁違いの多さでした。アメリカは比較的、国家公務員については特別多くなかったのですが、各州に所属する地方公務員がとても多いということが言えます。人口千人あたりの地方公務員数は64人です、
2番目に地方公務員が多かったのは、ドイツの390万人でした。人口千人あたりでは、47.3人が地方公務員という割合です。
3番目は日本で、約378万人が地方公務員です。人口千人あたりの割合は29.6人と、割合でいうと5ヶ国中最も少ない水準です。
4番目はイギリスの約293万人、人口千人あたりでは49人、5番目はフランスの約253万人で、人口千人あたりでは42.7人でした。
(公務員総研HPより:https://koumu.in/articles/200318g)
ただ、自治体は求められるものが複雑化していく一方で、職員を減らし続けた結果、仕事中に役所の外に出られる機会が減りすぎているのは大きな課題だと感じています。この行き過ぎた人員整理によって、大きなしっぺ返しを役所も住民も食らうことになるだろうなって予感はありますが・・その話はまた別の機会に。
対話に話を戻します。
対話についていうと、ボストンのようなレベルのものをいきなる作り上げるのは相当にハードル高いでしょうが、そういう環境にあろうがなかろうが、対話を重視し、自治体と住民が一体となって街を作り上げていくという姿勢を持った行政運営をしたいかどうか、それに尽きると僕は考えます。
そうした対話を重視した行政運営をしていこう!と覚悟を決めたら、ボストン市役所の例はあくまで参考事例の一つとして学びつつ、自分らでは何ができるかを住民と一緒になって対話し、作り上げていく。その地域にあったやり方で。それしかないのではないでしょうか。
要は、行政と住民が本気で一体になって街を作っていこうという覚悟があるかどうか。
マーティン・ウォルシュ市長にしたって、当時としては大人気の大統領の逆張りをいくって相当の覚悟があってのことでしたよね。まず見習うべきは、そういった覚悟なのではないかと感じていますが、皆さんはどうお考えですか?
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