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短編小説として聴く「わたしのアール」

こんばんは。ついに修論を提出したさかじょんです。

今回は、和田たけあきさん(くらげP)「わたしのアール」の感想というか考察というかなんというかの記事です。


「わたしのアール」は最後の10秒ですべてをオトす短編小説の感を持っており、3分34秒という楽曲の中で伏線を回収して完結する見事さがあります。

楽曲の下にはネタバレの類が内容に含まれますので、まだ聴いたことがない方、そんなに歌詞を聴いていなかった方は、ぜひしっかり(もう)一度聴いてからお読みください。

上記Wikiによると、「わたしのアール」に関する詳しい解説はブロマガにて書かれていたらしいのですが、ブロマガというサービス自体がなくなってしまったので今は見れません。かなしい。
私も読んでいなかったので、本記事も公式見解を踏まえたものではなく、私の感想とかになります。

チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!」や「キライ・キライ・ジガヒダイ!」といった楽曲のイメージも強いくらげPですが、「ブレス・ユア・ブレス」「ひとごろしのバケモノ」といったように、歌詞の物語性が高い楽曲も多くあります。


「わたしのアール」は「わたし」と女の子のやり取りを通して楽曲が進みます。
三つ編みの子、背の低い子、語られていない何人かの子、最後にカーディガンの子。

最後の10秒は、

カーディガンは脱いで
三つ編みをほどいて
背の低いわたしは
今から飛びます

でまとめられます。

ここで解釈が生まれますが、「三つ編み」「背の低い」「カーディガン」はすべて「わたし」の属性であり、今まで「わたし」がやり取りしてきた「女の子」はすべて「わたし」に帰着する(もしくは「わたし」から生まれる)存在であったとわかります。

一つの解釈として、「わたし」は「わたし」が飛ぶのを「ふざけんな!そんなことくらいで」と止めていたと取れますよね。
その結果、「三つ編みのわたし」は「話したら楽になった」と言い、「背の低いわたし」は「おなかがすいた」と泣いて消えて(帰って)いきます。

しかし、重い生きづらさを抱える「カーディガンのわたし」を止める資格は「わたし」にはないと思い、止めることができません。
「それでも、ここからは消えてよ。君を見ていると苦しいんだ。」としか言えないのです。
そうして「カーディガンのわたし」が「『じゃあ今日はやめておくよ』って 目を伏せたまま消えてった」次のシーン、

今日こそは、誰もいない。
わたしひとりだけ
誰にも邪魔されない
邪魔してはくれない。

「ふざけんな!そんなことくらいで」と言って、「わたし」を邪魔し止めてくれる「わたし」はもういないのです。

ここまでの解釈が、最後の10秒を聴いて初めて生まれるのです。まさに最後の1行でオトす短編小説です。まじすげえ。

個人的には「わたし」とそれぞれの「わたし」とのやり取りの間にどれくらいの時間があったんだろう……というのが気になりました。
楽曲はテンポよく進むため、それほどの時間を感じさせませんが、「三つ編みのわたし」「背の低いわたし」「カーディガンのわたし」はだんだんと重くなる生きづらさを背負っていきます。
この間の時間はそんなにすぐではないのではないかな……と感じました。


今回は「わたしのアール」の感想というか考察というかを書かせていただきました。

独自解釈が大いに含まれますので、くらげPの創作意図に適っていなければ大変申し訳ないのですが、このような楽しみ方をさせていただいておりますという形で……。
もし問題などあれば記事を取り下げます。

ではでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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