ロボットの系譜

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2000年に、DCカードの会員向け雑誌《The Card》(現在は《GRAN》というらしい)に書いたもの。一般向けに、SFに登場する「ロボット」とは何かを説明しているため、SFファンなら誰でも知ってる初歩的な話を、一から説明しております(汗)。

1.「ロボット」以前

 神話や伝説には神は自らの姿に似せて人を作ったというものが多いが、人間もまた自分の姿に似たモノを作り出すことに熱心だったということが言える。
 たとえば大昔の神話や伝説の中には、いくつもの「生き人形」たちが登場している。ギリシャ神話には青銅でできた青銅人間タロスが出てくるし、ユダヤには泥人形ゴーレムの言い伝えがある。
 また、近世のヨーロッパや日本では歯車やバネなどの機械仕掛けで動く「からくり人形」が人々の興味を惹いた。
 そして、十九世紀末の科学の急速な発展は、『フランケンシュタイン』(1883)という奇怪な小説を生む。近代的な怪奇小説およびSF小説の始祖と目されるこの小説は、フランケンシュタイン博士という才能豊かな科学者が、生命についての自らの研究を押し進めた末に、死人の体を継ぎ合わせて人工的に人間を作り上げるが、自らの作った人造人間に破滅させられるという筋立てである。
『フランケンシュタイン』は繰り返し映画化されているが、そのほとんどにおいて人造人間(よく混同されるが、フランケンシュタインというのは科学者の名前であって人造人間自体には名前はなく「フランケンシュタインの怪物」と呼ばれる)は言葉も話せないし、単純な感情しかないように見える。だが原作では、彼は高度な知性を備え流暢に話すこともできる。だからこそ自身の醜い姿と出自を呪い、自分のような怪物を作りだした博士を道連れに破滅の道を歩もうとするのだ。
 この作品に含まれた「科学の行き過ぎが生む悲劇」、「被造物の叛乱」といったテーマは人間の思い上がりへの戒めであり、それはキリスト教における絶対的な神に対する畏敬の念の裏返し(神ならぬ人が全能を気取るべきではない)だと考えてよいだろう。

2.「ロボット」の誕生
 ロボットという言葉を作りだしたのは、チェコの劇作家、カレル・チャペックである。
 チャペックがその戯曲『ロボット』(1920)に登場させた人造人間「ロボット」は、人体構造を単純化することによって大量生産できるようになった人間だった。つまり、バイオテクノロジーによって作り出された人工生命だったわけだ。
 チャペックの物語では、ロボットに職を奪われた労働者たちが暴動を起こし、それを鎮圧するために体制側がロボット軍を結成するが、やがてロボットたちが感情に目覚めて革命を起こすという結末が待っている。そこには『フランケンシュタイン』同様科学の行き過ぎに対する警告が含まれているが、それが単なる一体の怪物の創造というささやかなものではなく、大量のロボットたちによる世界征服という大きなスケールの事件へと発展していくという違いがある。そこには、産業革命による工業化社会の誕生とそれによる大量生産の実現が、社会に与えた衝撃(機械化された社会への不安)が反映されているのだ。
 また、産業革命はロボットのイメージ自体をも変えていくことになる。フランケンシュタインの怪物やチャペックのロボットたちのような生物的な人工生命ではない、機械仕掛けの人型としてのロボットが姿を現したのだ。現実の世界における機械化の発達によって、人々は生物的な「ロボット」よりも機械的な「ロボット」のほうによりリアリティを感じるようになったのである。
 その典型と言っていいのが、フリッツ・ラング監督の映画『メトロポリス』(1926)に登場する美少女ロボットのマリアだろう。マリアのメタリックな輝きを放つ金属のボディには、一種独特のエロティシズムが満ちていた。
 一九二〇年代末、かくしてロボットはその名前と姿を与えられ、フィクションの世界を跋扈するようになったのである。

3.〈ロボット工学三原則〉
 ちょうどその頃、アメリカではSF専門誌が誕生、SFが大衆小説ジャンルの一つとして確立するようになった。
 その中でロボットは常套的に用いられる小道具(ガジェット)の一つとして受け入れられ、さまざまな作品に登場するようになった。これにより、人々はいよいよ「ロボットという概念」そのものを受け入れていったのである。
 中でも特にエポック・メイキングだったのが、アイザック・アシモフの短編「われ思う、ゆえに……」(1941)だった。この作品はロボットがその論理的な思考の末に誤動作を起こしてしまうというものだが、その中でアシモフはロボットの思考原理として〈ロボット工学三原則〉を考え出したのである。
 これは、以下のような「ロボットの行動規則」とでも言うべきものである。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、第一条に反する場合はこのかぎりではない。
第三条 ロボットは第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。

 実はこの三原則の内容自体には重要な意味はない。現実のロボットをこの原則に従って作る必要はないし、実際にそのようなことにはならないだろうからだ。
 アシモフが偉大だったのは、この三原則を導入することでロボットを「プログラミングに従って作動する機械」としてきちんと定義したところにある。アシモフは、コンピュータが実用化される何年も前に、自律的に動作する(自分で判断して自動的に動くこと)機械には論理的なプログラミングが必要であることを見抜いていたのだ。
 これによって、ロボットのイメージは「反逆の芽を持つ怪物」から「単なる高度な機械」へと矮小化された。その上でアシモフはさまざまな作品にロボットを登場させ、「人類の友」としてのロボット像を確立していったのである。
 たとえば『鋼鉄都市』(1953)は、低機能ロボットを使ってロボット工学三原則の裏をかこうとするトリックが登場する本格SFミステリだが、その一方でアシモフは自我を備えた高機能ロボットと人間との友情を描き、(炭素(C)で出来た人間と鉄(Fe)で出来たロボットが手を携えて未来を切り開いていく「CFe(シーフィー)文明」を提唱しているのだ。

4.反逆するロボットたち
 アシモフのロボットもののようにロボットを肯定的に捉えるSFが増えていった一方で、昔ながらの「反逆する被造物」としてのロボットたちの系譜も脈々と受け継がれている。
 カルトな人気を誇るSF作家フィリップ・K・ディックは、人間と同じ姿をしながらも人間的な感情を持たない「シミュラクラ(真似するもの)」と呼ばれるロボットを繰り返し自作に登場させ、その不気味さを訴えかけた。彼にとってロボットとは、ある種の人間が持つ「他人に共感を感じない冷酷さ」=「非人間性」の象徴だったのである。
 この論理を押し進めていけば、つまりは「他人に共感できる」ことこそが人間の条件であるということになる。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)をリドリー・スコットが映画化した「ブレードランナー」(1982)は、この考え方に則って原作を大胆に脚色、もっとも「人間的」な登場人物が実はアンドロイドであったことを明らかにして幕を閉じてしまう。
 もっと怪物的かつ破壊的なロボットの代表格といえば、SF作家フレッド・セイバーヘーゲンの創造した《バーサーカー》だろう。
『赤方変移の仮面』(1968)などに登場するこの戦闘ロボット軍団は、自分たち以外のすべての知性体が敵であり、宇宙を股に掛けてしらみつぶしに生命を殲滅してまわる凶悪このうえない怪物たちである。
《バーサーカー》の子孫たちは小説よりもTVや映画のような映像メディアのSFに受け継がれ、「ターミネーター」(1984)のような作品が今でも続々と生まれている。

5.ジャパニメーションのロボット
 しかし映像メディアということであれば、日本こそロボットたちの天国だと言っていいだろう。
「鉄腕アトム」(1963-66)に始まって、日本のアニメの世界では「ロボットアニメ」が大
きなサブジャンルとして確立し、アニメ全体を牽引するヒット作を輩出し続けているのである。
 日本のロボットアニメの顕著な特徴として、アトムのような自律型のロボットよりも、人が乗って操縦するタイプの巨大なロボットが圧倒的な多数派だという点がある。これら操縦型ロボットは、アニメのメイン視聴者である子供たちにとって、「全能の存在」になるための「自分の肉体の延長」なのだ。
「鉄人28号」(1963-65)(これは正確には人が乗るわけではないが)に始まるこのよう
な操縦型ロボットが登場するアニメには、「マジンガーZ」(1972-74)、「機動戦士ガン
ダム」(1979-80)、「超時空要塞マクロス」(1982-83)、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995-96)など、アニメ史のターニング・ポイントとなった大ヒット作品が多い。
 日本のマンガやアニメに登場するロボットたちのもう一つの特徴は、前述の「ブレードランナー」や「ターミネーター」のような「フランケンシュタインの申し子たち」が少ないことだ。
 最初の稿で少し書いたが、自らの被造物に反抗されるという恐怖感(これを「フランケンシュタイン・シンドローム」と呼ぶ人もいる)は、キリスト教的な絶対神への信仰心の裏返しであるため、非キリスト教文化圏である日本には縁の薄い感覚なのだろう。
 かくして、日本におけるロボットには、「正義の味方」であり「人類の友」であり「人間の肉体の延長」でありという、肯定的なイメージが圧倒的に付与されているのである。

6.そして二十一世紀へ
 現実の世界でも、日本はロボットの開発において世界をリードしている。そこには、フィクションの世界で育まれた肯定的なイメージが少なからず影響しているようだ(インタビューなどで「アトム」や「鉄人」に言及する日本人ロボット技術者のいかに多いことか)。
 ともあれ、ここ数年のロボット開発の進展は実にめざましい。ホンダは、完全に二足歩行するロボットP2、P3を続けざまに発表するし、ソニーは完全自律型のペットロボットAIBOを発売、バンダイも簡単なプログラミングで動く自律型ロボット玩具を発表した。まるで一昔前のSFが夢想したように、一般家庭にロボットが入ってこようとしている。
 どうやら二十一世紀は、「ロボットたちとどうつきあうか」を現実の問題として考えないといけない時代になりそうだ。

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