『十二国記』再訪「月の影 影の海」篇

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 今回から4回連続で、2009年から2010年にかけ4個に分けて発売された、テレビアニメ『十二国記』のブルーレイボックスに添付されたブックレットのために書いた原稿をアップしていきます(なお、文中の作品リストなどのデータ類は当時のものです)。

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1.十二国再訪
 テレビアニメ版『十二国記』は、小野不由美の大河ファンタジー小説『十二国記』のうち、初期長篇四作を中心に映像化したものである。
 本BOX収録の『月の影 影の海』は、原作の第一作であり、シリーズの開幕篇でもあるため、十二国の世界を、読者(視聴者)に初めて紹介していくという機能も併せ持つ、重要なエピソードとなっている。ここで私たちは、主人公である陽子と共に、彼女の視点に立って、十二国の不思議な世界へと入り込んでいくのだ。
 そんな本作をアニメ化するにあたって、スタッフはなるべく原作に忠実に、物語を文章から映像へと移し替える道を選んだ。
 元々、長編小説1冊に含まれる物語の情報量は、映画1本分を優に上回る。したがって、小説を映画化する場合は、枝葉の部分をいかにうまく削りとり、原作の本質だけを移し換えることができるかが脚色のポイントとなる。
 だが本作では、TVシリーズならではの長尺を生かし、十三話かけて、逆に原作のエピソードをふくらませつつ、十二国の世界観をじっくりと描きこんでいる。
 とはいえ、文章と映像とは根本的に全く違う種類の表現手段であり、なにもかも原作通りというわけにはいかない。やはり様々な部分で差違が生まれているのだが、中でも原作ファンが一番驚いたのは、第1話から登場する二人のキャラクター、杉本優香と浅野郁也だろう。杉本は原作にも登場するものの、もっと小さな役割しか持っておらず、浅野に至ってはアニメ版のオリジナル・キャラクターだ。
 原作では、物語の前半、主人公の陽子が見知らぬ土地をさまよいながら、疑心暗鬼に陥り、自らの心の闇と向かい合うことで、人間的な成長を遂げていくことになる。問題は、この間の葛藤は陽子の心の中で行われるということにある。個人の心の中に深く踏み込んで描写していくことは、小説の醍醐味の一つではあるが、それをそのまま映像化してしまうと、陽子のモノローグが延々と続くことになってしまい、ただ単調なものになりかねない。映像作品とは基本的に登場人物の行動によってその心情を描くものなのだ。
 この点をクリアするため、アニメ版では陽子の心情の負の部分を代弁するものを外部に設定した。それが杉本と浅野なのだ。
 注意深く見ると、この二人が陽子と対になる影の人格を持つ者として性格設定されていることがわかるようになっているのである。

 例えば、第四話において陽子たちは、達姐という一見親切そうな女性に騙され、遊郭に売り飛ばされそうになる。
 達姐のキャラクターは原作以上に小ずるく、聞こえよがしに陽子たちを買い受けてきたと人々に主張し、執拗に陽子のあとを追ったあげく、妖魔に八つ裂きにされて死んでしまう。
 また、第二次世界大戦終戦直前に十二国の世界に流されてきたという老人、松山は、原作では陽子の荷物を盗んでいくだけだが、アニメでは陽子たちを手配中の海客として県庁に売り渡してしまう。
 これらの事件によって深く傷ついた陽子を描く上で、原作では一人悶々と悩む陽子の心情描写が続くのだが、アニメ版では杉本と浅野が千々に乱れる陽子の気持ちを代弁することで、三人の会話として描かれている。つまりこの場面においては、一人の人間の持つ様々な心理状態を、陽子、杉本、浅野という別々のキャラクターに分離して表現しているのである。
 原作の小説においては、一人陽子が悩む場面は緊張感溢れる前半の山場なのだが、映像作品でそれを忠実に再現すると、何のアクションもないまま陽子のモノローグだけが続く動きのない場面になってしまう。そこで、会話として成立させるために、うまく杉本と浅野を利用しているわけだ。
 このように、本作においては、原作小説の持つ「小説ならではの語り口」を「映像作品ならではの語り口」に翻案するという仕掛けが随所に登場する。原作ファンの諸兄は、原作とアニメ版との差異を、その意図を推し量りながらチェックしていくのもおもしろいだろう。

 逆に言えば、原作において陽子が他者と関わりを持ちだした時点、アニメで言えば第五話以降、杉本や浅野の役割は不要なものとなるため、一旦その姿を消すことになるのだ。
 この第五話は、作中でももっとも悲惨かつ重いエピソードで、陽子が一番どん底まで肉体的にも精神的にも追いつめられていく。
 ここまで陽子と行動を共にしてきた浅野と杉本が陽子と別れていくことによって、陽子の孤独が増し、心理的にさらに追いつめられていくことになる。
 先に書いたように、杉本たちは、原作ではここまで一人きりで行動してきた陽子の心情を、視聴者にわかりやすく見せるためにアニメ版で取り入れられたキャラだった。しかし、このあとは楽俊が登場し、陽子と楽俊の関わりが陽子の精神的な成長の重要な鍵となる。このため、これまでとは逆に浅野と杉本のキャラクターが邪魔になるという判断で二人を退場させたのだろう。また、原作と違ってここまでは知り合いがいたのに、この話数で一気に一人になってしまう(そのうえ、杉本には殺されそうになる)という展開が、この話数における陽子の絶望感をうまく強調している。しかも、原作の展開をきちんとなぞりつつ、二人を退場させていく脚色の手並みも素晴らしい。
 ちなみに、浅野は『月の影 影の海』ではこのまま出番がないのだが、このあとアニメ版『風の万里 黎明の空』において、杉本に代わって陽子と対立する重要なキャラクターとして再び登場することとなる。

 もう一つ、杉本と浅野には、原作では明示されていない、あるメッセージをはっきりと示すという、大きな役割を担わされている。
 それは、安易な「運命」や「物語」の否定である。
 かたや読書家で夢見がちな少女である杉本は、自分の好む「物語」の世界の中にあるような「異世界」で生きることを夢見ている。彼女にとって、自分を取り巻く現実の世界よりも、本の中でかいま見る剣と魔法の世界こそが、よりリアルであり、魅力的なのだ。そんな杉本にとって、陽子と共に迷い込んだ十二国の世界はまさに理想郷であり、ここにこそ自分にとっての真の「運命」が待っているのだと思いこんでしまう。
 一方、どこにでもいそうな軽めの男子高校生である浅野は、自分の常識からかけ離れた十二国の世界を、何らかの「ゲーム」であると考えることで理解しようとする。そして、自分たちは「ゲーム」の世界に放り込まれたのだから、そこには何らかのルールが存在しており、その世界もそこに住む人々も、そのルールに縛られ、操られているのだと結論してしまう。

 十二国の世界を、現実よりも上に置いてしまう杉本と、現実以下のゲーム盤と見なしてしまう浅野の態度は、「ファンタジー」というものに対する両極端の立場であるが、いずれも自分の目前の「現実」を直視できないでいることに他ならない。
 それゆえにこそ、杉本は塙王に利用されてしまい、浅野は状況に翻弄されるがままとなってしまう。
 特に、杉本というキャラクターは、「ここではないどこか」に自分を受け入れてくれる場所があるに違いないという、思春期にはありがちな妄念が、いかに不毛な結末しかもたらさないかを体現している。杉本を通して、アニメ版では原作以上にはっきりと過度の逃避や責任回避を否定しているのだ。
 結局杉本は、自分と向かい合うことで徐々に成長していく陽子とちょうど正反対に、自分の思いこみを塙王に利用されたあげく、用済みとなったために捨て去られ、心に深い傷を負うことになる。「私は選ばれし者」と叫ぶ杉本のセリフが実に痛々しい。
 そして、ひたすらに目の前の現実と向き合い、自らの生きる道を探ろうとする陽子だけが、十二国の世界の正当な住人となっていく。それは、単に麒麟に指名されたから王になるという、「運命」とでもいうようなものの力のためだけではない。なぜなら、一旦王となったあとも、道を誤れば「失道」してその力を失うのが、十二国の世界の決まりだからだ。王であるということは、陽子の成功を保証するものではないのである。
 ここに、『十二国記』の物語が持つ大きな特徴がある。それは、この物語が典型的な異世界ファンタジーの枠組みを用いていながら、異世界ファンタジーが使いがちな「主人公の特殊性」を徹底的に排除しようとしている点であり、それこそが先に書いた安易な「運命」や「物語」の否定につながっているのだ。

 さらにもう一人、陽子と対照的なキャラクターとして登場するのが、自らの「運命」である王としての治世に倦み疲れ、その鬱屈した感情を転嫁して、陽子を陥れようとする巧国の王、塙王である。
 アニメ版の塙王は、原作よりも早く画面上に登場し、その後も原作よりも直接的な行動まで取ることとなる。これは、シリーズを通しての敵役を視聴者に提示し、週一回の連続放送における緊張感を持続させるためだろう。
 また、原作では、陽子が水禺刀で塙王と塙麟との会話をかいま見て、その姿や真意を知るだけで彼らと会ったりはしないし、彼らのその後についても暗示されているだけだが、アニメ版では第十二話において延王や楽俊、杉本らの眼前で陽子と塙王・塙麟とが直接対峙し、第十三話では塙王の敗北がはっきりと描かれることとなる。
 これはもちろん、アニメ版における塙王の陰謀が、原作よりも(特に杉本を使うところなど)執拗であることから、これくらいのはっきりとした決着を用意しておかないと物語のバランスが悪くなってしまうということもあるが、やはり陽子と杉本との対決同様、登場人物たちの対立をできるだけ直接的に表現しようという脚色の意図が反映されていると考えるべきだろう。
 これはよく言われることだが、小説であろうと映像作品であろうと、なべて物語というものは登場人物同士の対立を描くことが重要な要素である。ただし、小説においては人物の内面の心理的な描写を文章で表現できるが、映像作品はそれができない。このため、映像作品においては、登場人物の心理をその行動によって表現することが要求されているのである。

 塙王こそが本作における陽子の最大の敵ではあるが、彼が自滅したあとも、陽子はもう一人の敵と戦わねばならない。それが、陽子の留守に即位を宣言した慶の偽王、舒栄である。
 舒栄も塙王同様、「王たる者」の資質を持たぬまま、王であろうとした者として描かれている。この二人の姿は、陽子にとっての反面教師であると共に、この十二国の世界においては、素質(麒麟に見いだされること)や才能(本人の実務能力)だけでは、王たり得ないことを明確に示している。それはもちろん、現実の世界において、不断の努力が伴わない才能が往々にして開花しなかったりしぼんでいったりすることを、極端な形で表していることでもある。
 こういうところにも、『十二国記』がファンタジーでありながら、現実を強く意識した物語であることが現れていると言えるだろう。

 一方、塙王や舒栄とは対照的に、王道を知る立派な王として描かれているのが、延王である尚隆だ。アニメ版では、原作においては別の長篇であり、アニメでも第四部として映像化される『東の海神 西の滄海』から、尚隆が延王として立つまでのエピソードが導入
され、尚隆の人物像がよりわかりやすくなるようにできている。
 一度、領主として失敗した経験があるからこそ、尚隆は真摯に倦むことなく治世と取り組んでいるのだと言える。
 もう一つ、尚隆について、『十二国記』の物語全体の重要な伏線であろうと推察されるポイントは、延麒である六太が尚隆のことを「雁国を滅ぼす王」であると直感するところだ。
 この、一見すると尚隆の王としての在りようと矛盾しているように見える六太の直感こそ、いまだ書かれていない『十二国記』のすべての物語の結末に大いに関わる、重要な暗示なのではないだろうか。

 さて、終章である第十三話では、塙王との対決の決着のあと、いよいよ陽子が延王の助けを借りて、慶国へと攻め込み、景麒を奪還して偽王である舒栄を倒すこととなる。
 原作よりもさらに踏み込んだ描写がおこなわれているのが、終盤、玉座に座った陽子と杉本の会話の場面だろう。原作では、最後に歴史書からの引用という形で「偽王舒栄を伐たしむ」とだけ書かれていた部分が、どんなに凄惨な戦いだったか、直接的ではないもののはっきりと見せているのである。
 ここで、杉本に「景麒さんは?」と問われて、陽子が「今の私には近づけないの」と答えている箇所がある。麒麟は血の匂いに弱く、そのそばには近づけない。したがって、このときの陽子は血まみれなのであり、それはたぶん、敵兵を斬り殺したときの返り血をたっぷりと浴びているからなのだ。さらに言えば、斬った相手の中には、このあとの兵士との会話で死亡が告げられている舒栄も含まれている可能性は大いにある。
 こうして杉本は、「世界の救世主となる」という「物語」が、陽子に課した代償(自らの手を血で汚すこと)を知り、現実がフィクションと違っていかに残酷なものであるかを思い知らされる。この場面にこめられた「現実を直視せよ」というメッセージにこそ、アニメ版『月の影 影の海』の真髄がある。そしてそれは、実は原作にも常に通湊低音として流れているメッセージなのだ。

 かくして、自らの手で自らの手で多数の人間を殺めてしまった陽子には、それに対する手厳しい責めが待っている。他に方法がなかったからといって、陽子がしたことは殺人に他ならない。設定的な意味はともかく、このとき、景麒が陽子に近づけないのは、設定上はともかく、物語としての意味合いは、陽子の行為に対する異議申し立てであることは明白だろう。
 ここにおいて、陽子の行動をまったくの「正義」として全肯定することを、この物語は拒絶しているのだとも言える。
 とはいえ、戦いを選んだ陽子の判断が不可避であったことも、物語は示唆している。というよりも、陽子はこの物語の全体を通して、常に「人としてどう行動すべきか」という判断を迫られ続け、悩み続けていたということである。そして、陽子はこのあとも新米の王様として、悩み続けるであろうということが容易に推測できる。
 すなわち、その悩みこそがこの物語のもう一つの重要なテーマであり、この物語が正義の物語ではなく、倫理の物語であるということなのだ。

 本作の物語自体は、この場面では終わらず、さらに日本に戻った杉本が高里要(記憶を失っている泰麒)と出会うところまで続き、泰麒の物語である『風の海 迷宮の岸』へとつながっていく。
 ここで、杉本というキャラクターが持つ、もう一つの役割が明らかになってくる。
 原作の『十二国記』は、全体を通しての主人公であると思われる陽子の物語と、他国の王たちの物語が交互に語られる形で書き継がれているが、その中でも、戴国の麒麟である高里要の物語は、もう一つの大きな流れとして、十二国の行く末に暗い予兆を投げかけている。
 今回のアニメ版では、原作の個々の長篇をそのまま映像化するだけでなく、一本の大きな物語としてつないでみせようとしている。
 延王と延麒が本作で原作以上に顔を出すのもそのためだし、本作の前半で姿を消す浅野が『風の万里 黎明の空』で再登場するのもそのためだ。
 そして、本作のラストでは、杉本が本作の物語と『風の海 迷宮の岸』の物語をつなぐ役割を担っているのである。
 もちろん、その物語については、次巻でまた語っていきたい。

2.『十二国記』の源流を探る その1

『十二国記』の世界、すなわち、陽子たちが連れてこられた異世界は、神々が住まうといわれる五山を戴く黄海の地を、十二の国々がぐるりと取り囲むように存在している。それら、慶、奏、範、柳、雁、恭、才、巧、戴、舜、芳、漣の十二の国々には、こちらの世界の人々と一見何の変わりもない人々が住んでいる。
 ただし、彼らは我々の世界の人間とは根本的に違う。追々本編でも語られることになるが、この世界の人々は母親の胎内から生まれるのではなく、木の幹に実となってなるのである。
 さらに、彼らは国ごとにそれぞれの王によって統治されているが、王および国政を司る仙たちは不老不死なのだ。しかも、彼らは王や仙に選ばれたときから不老不死となるのであって、もともとは普通の庶民なのだ。仙は王が任命し、その王は天命を受けた麒麟によって選ばれる。彼らは古代中国に似た文化・文明を持っているが、こういった不可思議な制度や生態などは、もちろん実際の古代中国とは大きく異なっている。
 また、彼ら自身は中国を含むこちら側の世界の国々についてほとんど何も知らない。唯一、虚海と呼ばれる海が、こちら側の世界とつながっており、そこには日本や中国と呼ばれる国があるらしいということしか知らない。
 もう一つ、この世界が我々の住むこちらの世界と違う点は、妖魔と呼ばれる異様な怪物たちが存在することだ。本編中でも様々な種類の妖魔が登場するが、知能の高いものや超常的な能力を持つものが多く、未知の動物というよりも、やはり「妖魔」という呼称がふさわしい怪物たちだ。
 これら、陽子たちが次々と見聞きする、この世界の不可思議な有り様とその理由こそ、『十二国記』の物語全体を貫く大きな謎となっている。
 本稿では、こうした『十二国記』の世界観の、ルーツとなった実在の伝説などについて、少々解説を試みたい。

『十二国記』に登場する妖魔の多くは、その基を『山海経』という奇書から採られている。
『山海経』は中国古代の地理書で、長い年月をかけ、様々な人々の手によって書き加え続けられて現在の形になったため、作者は不詳である。もっとも古い部分は戦国時代(紀元前5~紀元前3世紀)に書かれており、秦から漢の時代(紀元前3世紀~3世紀)にかけて次第に内容が増えていったという。
 その構成は、当時の世界観に合わせて、世界をいくつかの地方にわけ、それぞれの地域に住む動植物を記述するという体裁をとり、地域ごとに十八の経に分かれている。
 とはいえ、この書が奇書として有名な由縁は、そこに書かれている動植物のほとんどが、現実には存在しない怪異なものだということにある。
 中には、当時中国では珍しかった外国の動物など実在のものも含まれているが、その大半は神話などに登場する伝説上の生き物や妖怪のたぐいなのである。その形状も異様なものが多く、人面獣身や有翼などましなほうで、隻眼、多頭、一本脚など、実在し得ないような形状の生き物が山のように描かれている、まさに「怪獣百科」というか「妖怪事典」のような本なのだ。

 たとえば、景麒が使令として従えている妖魔たちのうち、犬のような姿をしている班渠(ハンキョ)は猗即(イソク)という種類の妖魔であるが、『山海経』においては「獣がいる、その状は膜(未詳)犬(西域のいぬ)の如く、赤いくちさき、赤い目、白い尾、これが現れるとその邑に火災おこる。名は猗即」という記述がなされている。
 また、杉本と浅野を抱え、驚異的な跳躍力で町の中を飛びぬけていった重朔(ジュウサク)は、雍和(ヨウワ)という種類の妖魔で、こちらは『山海経』に「獣がいる、その状は猿の如くで赤い目、赤いくちさき、黄色い身、名は雍和。これが現れると国におおさわぎがおこる」と書かれている、といった具合だ。

 また、この書の世界観自体にも独特なものがある。それは、当時、中国の中心的な都市であった洛陽を世界の中心に置き、その四方をとり囲む五蔵山、さらにその外側に海内、海外、大荒の3つの世界が、四角い枡を3つ重ねてはめ込んだような形を想定しているのだ。
 地名などは全く違うが、構造だけをとってみると、これは『十二国記』世界の構造とよく似てはいないだろうか。『十二国記』の世界に住む妖魔たちが記載されていることといい、単に原作者の小野氏が『山海経』から想を採っただけなのか、それとも、『十二国記』の世界と『山海経』のあいだには、まだ誰も知らない隠された関係があるのか。『山海経』に対する興味は尽きない。

 アニメ版第八話で、玉葉が語る十二国の創世神話に、杉本が「まるでデタラメよ」と言う場面がある。ここで杉本は、『十二国記』の世界が、中国風の意匠を備えていながら、中国の神話や伝説と大きく食い違っている異様さを指摘している。完全な別物ではなく、共通の要素を含んでいるからこそ、よけいに異様なのだ。
 それは、たとえば先に述べた『山海経』に出てくる怪物と『十二国記』の世界の妖魔との微妙な相関関係もそうだし、中国伝来の神や仙人と『十二国記』の世界を作った神や仙人との関係もそうだ。
『十二国記』の世界では、その中央に黄海と呼ばれる陸地が存在する。黄海はその周囲を登山不可能な山脈、金剛山に囲まれており、内陸へと入るには四方に置かれた四つの門をくぐる道を通るしかない。その奥には樹海、沼地、砂漠といった茫々とした土地が広がるばかりだが、そのさらに中央には《五山》と呼ばれるひときわ高い山々(崇山、恒山、華山、霍山、蓬山)、がそびえたち、神仙が住まう。この五山の一つ蓬山こそ、麒麟が生まれ育つ聖地であり、十二国の世界を動かしているシステムの根幹である。
 もっとも、中国に伝わる伝説では、五岳とは現実の中国にある山々(崇山、恒山、華山、衡山、泰山)のことであり、そこには蓬山や霍山といった名前はない。そして、仙人たちの住む理想郷とは五岳のことではなく、蓬莱、方丈、瀛州という架空の三神山を指している。さらにいえば、五山の主とされる西王母も中国の伝説によれば、崑崙山の頂きに住み、西華という女仙だけの国を統治しているという。

 また、仙人というものも、中国における本来のそれと、十二国の世界とではずいぶんと異なっている。
 十二国の世界では、王を始め官職についた者とその親族は、仙籍を与えられ、それによって不老不死を得ることになっている。それには、何の修行も、肉体改造も必要とせず、まさに手続き上の問題でしかないというお手軽さだ。
 一方、中国の神話伝説における仙人は、なかなかそう簡単にはなれない存在だ。もともと仙人とは、人里離れた深山幽谷に籠もって暮らす、浮世離れした人のことだった。仙人は山中で修行に励むことで、老齢に至っても健康を保ち、不思議な術を使うようになったとされる。
 それが、時代が下がるにつれて、街中に住んでいても、複雑な健康法を会得し、仙薬を服用して、心身を鍛えることにより、仙人となることができると考えられるようになり、その寿命も百年、二百年といった、まだ想像可能なスケールから不老不死へと、仙術も一種の魔法のような万能のものへとスケールアップしていった。
 それと共に、仙人となる人の出自も変化していった。徳の高い修行者や思想家から、剣豪や武芸者、さらには名もなき庶民たちへと変わっていったのである。
 そして、その次に起こったのは、仙人になるための手段の具体化である。
 仙人になるには、なによりも鉱物性の仙薬「金丹」を服用する必要があり、この「金丹」の作り方をマスターするために、優れた師匠のもとで厳しい修行をしなければならないというのである。
 さらには、そうやって修行を積んでも、その能力に応じて仙人には三つの位があり、みごとに昇天して天界の住人となる「天仙」、地上に留まって何百年も生き続ける「地仙」、いったん死してのちに復活する「尸解仙」に分かれてしまうとも考えられるようになった。
 こうなってくると、『十二国記』の世界の仙籍保持者たちのほうが、天に認められさえすれば簡単になれるのだから便利そうだが、仙人になったあとの生活を考えると中国古代の仙人たちのほうに分がある。
 なにせ、十二国の仙籍保持者たちは王とそれに仕える官吏たちであり、国を治めるために日々働き続けないといけないのだ。
 それに比べると、古代中国の仙人たちは、浮き世を離れ、衣食住の心配もなく、定職にも就かずに自由人としてふらふら好きに生きている風来坊たちであり、ずいぶんとお気楽な存在である。
 そんな存在に、もしかしたら修行次第でそこらの庶民もなれるかもしれない、という言い伝えには、厳しい日々の暮らしを生きる人々のストレートな願望が込められていたのだろう。

 さて、『十二国記』の世界を特徴づけるもう一つの不思議な事象が、我々の世界と『十二国記』の世界とのあいだで人が往き来する、海客、山客、そして胎果である。
 蝕のときに、ときおり蓬莱(日本)や崑崙(中国)から『十二国記』の世界に人が流れ着くことがある。十二国の人々は、日本から流れてきた人間を海客、中国から流れてきた人を山客と呼んで区別している。
 一方、元々は『十二国記』の世界に生まれるはずだった人間が、我々の世界に生まれてきてしまうこともある。先に書いたように、十二国の人間は卵果と呼ばれる木の実として樹に成るのだが、この卵果が異界、すなわち我々の世界に流されてしまうことがある。すると、その卵は異界の女性の胎内に宿り、その子供として生まれつく。そのような人間を十二国の人々は胎果と呼ぶ。
 日本にも、人が突然いなくなる「神隠し」の言い伝えは各地にあるが、『十二国記』の場合、人の往き来が双方向であるところが、西洋の「取り替えっ子(チェンジリング)」に非常に似ている。
「取り替えっ子」というのは、ヨーロッパのを中心に広く伝わっている民間伝承で、妖精がみずからの子と人間の子供とを(多くは赤ん坊の時に)秘密裏に取り替えてしまうこと、もしくは取り替えられた子のことを指す。
「取り替えっ子」は多くの場合、醜い外見、不快な性格、高い知能などといった特徴を持ち、普通の子供と簡単に見分けがつくという。
 この「取り替えっ子」は、医学が発達する以前の社会において、正常に成長しなかった子供たちの特異性を説明するために発展してしまった伝承であると考えられている。
 それは、容易に「自分たちと違う人」に対する差別に結びついたことが想像できる。
 これはまさに、『十二国記』の外伝であり、胎果として日本で過ごす泰麒の姿を描いた『魔性の子』の中心テーマでもある。
 妖精にまつわる西洋の民間伝承との類似ということで言えば、『十二国記』の世界そのものが、妖精たちの住む異界である妖精郷と似通った性格を持っている。
 妖精郷は山中や海の彼方の異世界にあるとされ、中でも海の彼方にはアヴァロンやイスと呼ばれる常若の世界があると考えられていたのだ。
『十二国記』の世界をこの妖精郷のようなものだと見立てれば、妖魔たちはさしずめ西洋の妖精たちにあたるだろう。今でこそ妖精と言えば見目麗しい人に似た種族を指すと思われがちだが、もともとの妖精は多種多様な姿をした怪物たちの総称だったのだから。

 ここまでいくつかの事例について書いてきたように、『十二国記』の世界には、既存の神話や伝説との、中途半端ともいえる類似が随所に見受けられる。
 そこにこそ、『十二国記』の世界の成り立ちそのものに関わる謎が秘められている。そう考えるのはあながちうがちすぎた推論でもあるまい。

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