「トゥモロー・ワールド」パンフ用原稿

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2006年、映画「トゥモロー・ワールド」のパンフレットに書いた原稿。原作小説との違いに着目しつつ、映画の魅力を説いたもの。この映画にも驚かされましたが、次に撮ったのが「ゼロ・グラヴィティ」ですからね。アルフォンソ・キュアロン監督恐るべし。


『ネガとポジのような原作との関係』

「トゥモロー・ワールド」の映画版と原作小説との関係は、ちょうど映画「ブレードランナー」と原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の関係に似ている。つまり、同じテーマを、フィルムのネガとポジのように、両面から眺めているような感があるのだ。
 映画「トゥモロー・ワールド」は、架空の近未来を描いたSF映画だが、そこに映し出される殺伐とした世界は、戯画化されてはいるものの、まさに今われわれが置かれている世界を反映したものである。いや、架空の世界を舞台にしているからこそ、我々が今現実に抱えている問題点をより明確に抽出したと言ってもいいだろう。
 イギリスのミステリ作家P・D・ジェイムズによる原作と、今回の映画とのあいだには、「原因不明のまま子供が生まれなくなり、人類が滅びつつある近未来」で「ごくごく一般人である主人公が、人類の未来を左右するかもしれない人物の争奪戦に巻き込まれる」という基本的な設定以外、ほぼ共通点はない。
 原作に描かれた未来世界は、緩やかに死へと向かおうとしている、活力のない停滞した社会だ。ここでのイギリスは議会制が撤廃され、国守と呼ばれる独裁者によって支配されている。だが、表向きは不思議と静謐で、荒れ狂う一部の若者たちをのぞくと、誰もが諦観を覚え、滅びの時を待っているかのようだ。
 それは、ソ連邦の崩壊によって、一瞬、世界が一極化したかに見えた、90年代前半という、原作が書かれた時代にふさわしい、静かなディストピアの姿だったといえよう。
 しかし、映画版で描き出されている未来世界は、原作とは対極にある、刺々しい対立に満ち溢れた世界である。
 この映画の中では、人々は滅びの予感に怯えつつも、あきらめきれずになおも生き続けようともがいているのだ。イギリスは独裁制になってはいないが、治安維持の名目で、警察や軍隊が圧倒的な力で市民社会を支配する強烈な警察国家と化している(この、独裁者という特定の個人が悪いのではなく、社会全体が右傾化しているという設定も、非常に今日的だと言える)。
 その結果、他の国々が、絶望した国民たちの暴動などによって崩壊しつつある中、なんとか国家としての安定を保っている。そして、崩壊してしまった他国から逃れてきた難民たちを、徹底的に排除・弾圧することによって、その安定を維持しているのだ。だが、それに対する反動も大きく、“FISH(フィッシュ)”らによる爆弾テロが横行し、難民たちは不満を爆発させる機会をうかがっている。
 それは、まさに現代社会の持つ矛盾をそのまま増幅したカリカチュアであり、あの9.11同時多発テロ以降の世界が行き着く先を示しているかのようだ。
 原作では、“FISH”は「五匹の魚」というたった五人だけの小さな組織で、活動も宣伝ビラを撒くだけの穏和な反体制団体だが、映画では、移民や難民たち、そして彼らに同情的な市民たちといった大勢の構成員を抱え、実力行使による政府の転覆を図っている過激なテロ組織だ。しかも映画では、自分たちの主義主張に利用するため、途中からは主人公を追い始める。原作と違って、主人公は体制側からも反体制側からも追われることとなってしまうのである。そこには、政治的主義主張に対する、製作者たちの徹底した懐疑心が表れている。その主張がいかに理にかなっていようと、手段が間違っているとき、犠牲となるのは一般市民であるということを、この映画ははっきりと主張しているのだ。
 登場人物たちの設定や配置も、原作とは大きく異なる。
 主人公のセオは、原作では一般人とはいえ、大学の教授であり、国守のいとこという立場にある。彼は権力には結びつかないものの、ある程度「特別な何者か」であることが約束されている人物なのだ。だが、映画のセオは、エネルギー省の官僚で文化大臣の従弟ではあるものの、元政治活動家でいったんは権力にひれ伏した、生気のない「無名」の人間として描かれている。
 ヒロインにいたっては、原作と映画ではまったく別の人物にすり替わっている。原作では、ジュリアンはセオとは何の関係もない女性であり、彼女自身が人類の未来に関わる秘密を持っている。だが、映画ではセオの元妻という役割を付加されて、セオに対する感情的な結びつきを最初から得た代わり、秘密を持つのはキーという原作には登場しない黒人難民の少女に託されてしまっている。ヒロインを二人に分割してしまった理由はあきらかだ。世界の命運を握る役割を「物語のヒロイン」という特権的な人物から、最初は脇役にしか見えない人物に移してしまうことで、やはり「無名性」をもたらそうとしているのだ。
 つまり、古典的な意味での主人公とヒロインを有する原作から離れて、映画はありふれた「無名の人物」たちが危機的状況に巻き込まれる「巻き込まれ型」ストーリーとしての側面を強調している。この映画のセオやキーは、我々と何も変わらない普通の人々なのだ。
 物語的なヒーロー性をはぎとられたセオは、だから、終始逃げ回ることしかできない。それは、現実にテロや暴動に巻き込まれた一般人がそうであるのと同じことだ。
 ところが、原作には全く登場しないクライマックスの強烈な戦闘シーンにおいて、セオの持つヒロイックな面が逆説的に如実なものとして表れることになる。
 暴動を起こした“FISH”と難民たちが、政府軍を相手に熾烈な市街戦を繰り広げる中、セオは“FISH”の幹部たちにさらわれたキーを助けるため、銃弾が飛び交う瓦礫と化したビルのあいまを、何の武器も持たぬまま、ただひたすら歩き続ける。
 それは、国守とセオが二人だけで対峙し、お互いに銃を持って対決するという、原作のクライマックスとは、まさに正反対の描写である。この、すさまじい戦闘の中でセオがみせる徹底した不戦ぶりこそ、映画の製作者たちが本作に託したメッセージに違いない。
 物語の結論も、原作と映画では全く逆方向を向いている。いずれも、人類の絶滅は回避されるかもしれないという予兆とともに終わるのだが、その代価としてセオが支払う代償はまったく正反対のものだし、原作では人類の存続は新たな戦争の火種として危惧されるのに対して、映画では救済として象徴的に描かれている。
 だが、原作も映画も、SF的な設定を用いて、「人間性とは何か」について真摯に問いかけているという点には変わりはない。冒頭にも書いたとおり、まさにポジとネガのように、人間に対する希望と絶望を正反対の位置から眺めているのである。
 先に書いたように、原作と映画との差は、原作が書かれてから映画が作られるまでの、たかだか十数年のあいだに起こった、世界情勢の変貌から生まれている。映画版「トゥモロー・ワールド」は、近未来というベールを隠れ蓑に、2006年という「今」を見据えようとする、きわめて現代的な映画なのだ。

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