『十二国記』再訪「東の海神 西の滄海」篇

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 2009年から2010年にかけ4個に分けて発売された、テレビアニメ『十二国記』のブルーレイボックスに添付されたブックレットのために書いた原稿(文中の作品リストなどのデータ類は当時のものです)の第四弾です。

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1.王たる者の資質
 アニメ版『十二国記』も本BOXがいよいよ最終巻。今回は『東の海神 西の滄海』が収
録されている。
 本作で描かれているエピソードの一部は、アニメ版『月の影 影の海』篇でも、回想と
いう形で描かれていたのだが、ここで再び、ほぼ原作の展開に従う形で映像化された。
 ファンの皆さんならご承知の通り、『十二国記』の物語は作品ごとに主人公が違う。原作小説(長篇のみ)の主人公を列記すると、以下のようになる。

『魔性の子』蒿里(実際には、視点人物は別人だが、ここでは一応こうしておく)。
『月の影 影の海』:陽子(尚隆も登場する)。
『風の海 迷宮の岸』:蒿里(尚隆も登場する)。
『東の海神 西の滄海』:尚隆。
『風の万里 黎明の空』:陽子(尚隆も登場する)。
『図南の翼』:珠晶。
『黄昏の岸 暁の天』:陽子、尚隆、蒿里が初めて一堂に会する。

 陽子の物語を「現在」として考えた場合、他の物語は「過去に起こった出来事」となっていることもあって、物語全体の主人公は陽子であるように受け取ることができる(そして、それはたぶん正しい)。
 だが、こうやって見てみればわかるように、本作『東の海神 西の滄海』の主人公であ
る尚隆は、ほとんど全ての長篇に登場し、活躍している。まさに陰の主人公とでもいうべき存在なのである。
 そしてまた、本作は、陽子が王としての資質を問われる『月の影 影の海』や『風の万里 黎明の空』とちょうど対応した内容ともなっている。
 陽子が、偽王・舒栄や和州侯・牙峰、和州止水郷長・昇紘たちに対して、自ら「王」として対峙するように、本作において尚隆は、彼の王権に疑義を持ち、挑戦してくる斡由と対決することになる。
 ここで興味深いのは、尚隆の言動にはまったくといっていいほどブレがないことにある。
 臣下たちが陰口をたたこうと、斡由が反乱を起こそうと、尚隆はまるで意に介する様子も見せず、自分のみが見据えている目的に向かって、迷いなく行動を続けていく。
 それは、「王であること」に悩み続ける陽子の姿とは、見事なまでに対照的だと言ってもいいだろう。
 なぜ、尚隆はあれほどまでにブレないのか。
 それは、彼がすでに一度自分の国をなくしてしまった王の息子であるからなのはまちがいない。彼はあらかじめ失敗した治世者なのだ。
 彼はすでに「王=為政者である」ということ、そして「為政に失敗するとどうなるか」ということを熟知している。そのうえで、なおかつ「王であること」を選んでいるわけだ。
 つまり、事情もわからず突然王に選ばれたことに戸惑いを隠せない陽子はもちろん、王に選ばれようとがんばる『斗南の翼』の珠晶とも違い、尚隆は王となったときから段違いの経験と覚悟を持っていたことになる。
 それこそが、彼のブレなさの源なのだ。
 言い方を変えれば、尚隆は登場時からすでに完成されたキャラクターである、という言い方もできる。
 一方の陽子は、試練を乗りこえるたびに人間的に成長していく、未完成なキャラクターである。
 両者の違いは、そこに起因しているのだ。そしてそれが、『十二国記』全編の物語が、尚隆ではなく陽子を中心とした物語となっている理由でもあると筆者は考える。我々読者は、陽子に共感し、彼女と共に悩むことはできるが、尚隆の活躍は見守ることしかできないからだ。

 尚隆と陽子とは逆に、『十二国記』に次々に登場する敵側の登場人物たちには、はっきりとした共通点がある。それは、誰もが「自分の意志で」為政者になりたいと望んでいる点だ。彼らの動機が、あくまでも「為政者の能力があることを知らしめたい」ということであって、悪役にありがちな「私利私欲を貪る」ことにはないことも、ほぼ共通している。彼らは単なる「悪漢」ではないのだ。
 ただし、物語が進むにつれて、彼らは自ら「為政者の器ではない」ことをさらけ出していってしまう。
 それがもっとも顕著なのが、本篇に登場する斡由だろう。彼は、理想は高く、事務能力に長け、弁舌も鮮やかな「正義漢」である。だが、その姿の裏には、己の「正しさ」を盲目的に信じこむ頑迷さ、プライドが高すぎて過ちを認めることができない器の小ささ、そして、目的のためには手段を選ばない卑劣さを抱え込んでしまっている。
 彼は、異世界ファンタジーに頻繁に登場する「究極の悪」のようなものではない。根っからの「悪人」ですらない。ある意味、きわめて普通の人間であると言ってもいいだろう。だからこそ、斡由がおこなう「悪」はリアルであり、恐ろしいのだ。

 尚隆と斡由の対立は、「王たる者の資質」を賭けた対決でもある。それは「天意により麒麟に選ばれた王」と「自らの意志で王になろうとした男」の対決のように見える。
 だが、実際にそこで試されているのは、実は「天意」などではない。なぜなら、天は王を選ぶだけで、それ以上のことは何もしないからだ。王は他者に倒されることも「失道」して自ら倒れることもあり得る。そして、本篇で最終的に斡由が破れたのは、彼が臣下たちの信頼を失ったからだ。つまり、試されていたのは、尚隆と斡由のどちらが「民意」を掴むかだったのだ。
 この「ねじれ」こそが、『十二国記』という物語の一筋縄ではいかないところだ。主人公たちは「天意」によって選ばれた王と、その「天意」を司る麒麟ではあっても、結局彼らを助けるのは自らの意志であり、周囲の人々の協力なのである。
 実のところ、『十二国記』の物語の多くは、「王たる者の資質とは何か」について問いかけている。それは、『風の万里 黎明の空』も『図南の翼』も同じことだ。
 だが、これまで述べてきたように、それを証明するのは「天意」でもなければ、「選ばれし者」の「運命」や「宿命」などといったものではない。それはあくまで、各個人の「選択」による。
 そして、尚隆と斡由、陽子と舒栄や牙峰たちの対立は、いかなる選択が人を善人と悪人とに分けるのかを象徴している。「王たる者の資質」を問うことは、そのまま「人としてどうあるべきか」を問うことにつながっているのである。
 そして、その問いの持つ普遍性こそが、『十二国記』を人々の心に残る物語としているのだ。

2.『十二国記』の源流を探る その3
「異世界ファンタジー小史」

『十二国記』は、我々の世界とは異なる世界、それも魔法が使える世界を舞台とした、いわゆる「異世界ファンタジー」と呼ばれるジャンルに属する作品である(実は、そのジャンル性を破壊するような構造を内包しているのだが、それについては後述する)。
『十二国記』の原作の刊行が始まった頃、異世界ファンタジーは小説の世界ではともかく、まだまだ日本の世間一般においては馴染みの薄いジャンルであったと言うべきだろう。
 だが、映画版「ハリー・ポッター」シリーズと「ロード・オブ・ザ・リング」(いずれも原作小説が存在するのは皆さんもご承知のことだろう)の大ヒットによって状況はがらりと変わり、今や異世界ファンタジーは大作映画の題材としてひっぱりだことなっている。
 本稿では、そんな異世界ファンタジーの歴史をざっとおさらいすると共に、その中での『十二国記』のポジションについて考察してみたい。

 まず、「ファンタジー」とはどのような「物語」なのかから考えてみたい。本稿ではわかりやすいように、「魔法」の力が生きているお話である、としてみたい。
 つまり、科学的に説明できない超自然の力が作中で働いていれば、その物語は「ファンタジー」なのだ(というわけで、「ファンタジー」は基本的に「ホラー」を内包する。超自然の力が恐怖を呼び起こす力を振るったとき、それは「ホラー」となるのである)。
 ということは、いわゆる「ファンタジー」もしくは「幻想小説」というものの起源は、世界各地に古くから伝わる神話や伝説にあることは、誰の目にも明らかだろう。そこには、神々や悪魔、妖怪、精霊や幽霊など、超自然の力が渦巻いているからだ。
 一方で、『十二国記』のような「異世界ファンタジー」とは、すでに述べたように「魔法が使える」だけでなく、「物語の舞台が、我々の世界とはまったく別の世界である」というところが重要な要素となる。たとえば、中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジーは、歴史ファンタジーであって、異世界ファンタジーではない。異世界ファンタジーとは、あくまでも我々のまったく見知らぬ歴史を持った別の世界が舞台であることが、重要なポイントなのだ。

 では、そんな「異世界ファンタジー小説」というジャンルはいつ生まれたのか。
 ファンタジー作家/評論家のリン・カーターは、その著書『ファンタジーの歴史』の中で、近代的な異世界ファンタジーの始祖はウィリアム・モリスであると断じている。
 モリスは十九世紀生まれのイギリス人で、芸術家であり商人でもあるという多才な人物だった。彼が晩年に入って発表した小説『世界のかなたの森』(1894年)こそが、最初の異世界ファンタジー小説であったと、カーターは論じている。その中では、中世ヨーロッパ風ではあるものの、我々の知る現実の歴史とは違う世界を舞台に、魔法が支配する森の奥へと英雄がわけいっていくのだった。
 さらにもう一人、初期の異世界ファンタジーを語る上で欠かせない作家が、二十世紀初頭から創作を始めたロード・ダンセイニだ。ダンセイニもまた、モリス同様イギリス人であった。
 ダンセイニは、モリスが作り出した「異世界」の枠を大きく広げていった。中世ヨーロッパ風の世界に、東洋風の味つけを施し、さらには類い希な言語センスで、まったく未知の神々の名前、地名、人名などを生みだし、我々の世界とは異なる世界を作り出していったのである。

 かくして、イギリスでその芽を生やした異世界ファンタジーの次の展開は、海を渡ったアメリカで1910~20年代に起こる。パルプ雑誌における「異境冒険小説」の興隆である。
『火星』シリーズのE・R・バローズ、『蜃気楼の戦士』のエイブラハム・メリット、そして、「ヒロイック・ファンタジー」小説の始祖となったロバート・E・ハワードの代表作『蛮人コナン』シリーズ等が続々と発表されたのだ。
 中でもハワードの『コナン』は、剣一本を頼りに傭兵から一国の王へと成り上がる蛮人を主人公に、彼が毎回剣の力で魔法に対抗するという「剣と魔法」の冒険活劇の原型を確立し、のちに数多くの類似作品を生むことになる。
 それらの中でも有名なのが、フリッツ・ライバーの『ファファード&グレイマウザー』だ。ライバーは、『コナン』が生み出した「勇猛な野蛮人」キャラクターに、「機転の利く都会人」の相棒を加えてコンビものにし、コメディの要素を加味したことで、オリジナリティ溢れる物語を作り上げたのである。

 こうして、アメリカで一時は盛り上がった異世界ファンタジー小説だが、第二次世界大戦の発生による紙不足でパルプ雑誌が衰退していくのに合わせるように、姿を消していってしまう。
 そんな中、再びイギリスに、異世界ファンタジーの傑作が生まれる。
 J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』と『指輪物語』、そして、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』だ。
 トールキンとルイスは、共にイギリスの名門大学オックスフォードの教員であった。その作風も性格もまったく異なる二人だったが、神話や伝説、ファンタジー小説に寄せる深い関心と愛情は共通しており、かなり仲のいい友人同士だったという。
『指輪物語』も『ナルニア国物語』も、今では世界中で愛されている異世界ファンタジーの傑作であり、この文章を読んでいる皆さんも、小説はもちろん、映画版を見た人もたくさんおられるのではないだろうか。
 物語の内容や舞台設定は大きく異なるが、細密に構築された異世界を舞台に、絶対的な善と悪との戦いを壮大に描いているという点において、この二作は共通している。そしてそれは、その後の異世界ファンタジーの方向性をも決定づけたと言ってもいい。

 もっとも、『指輪物語』はイギリスでの初版発行時にはそれほど売れたわけではなかった。
 異世界ファンタジーの大ブームが巻き起こるのは、もう少し後のこととなる。60年代に入り、アメリカで『指輪物語』が出版され、さらに『コナン』が復刊されると、大学生を中心に熱烈なファンが誕生、一気に全米に広がっていったのである。
 かくして、アメリカでは大々的な異世界ファンタジー小説のブームが巻き起こり、それは海を越えてイギリスにも伝わっていった。
 多くの作家が登場し、新たな異世界ファンタジーを発表するようになったが、その中でも特筆すべきは、マイクル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』シリーズと、アーシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』シリーズだろう。
『エターナル・チャンピオン』は、数多の平行宇宙を舞台に、輪廻転生を繰り返しながら、「秩序」と「混沌」の両勢力の均衡を保ち、世界を破滅から救うべく奮戦する「永遠の戦士」の姿を描いたもので、ムアコックのほとんど全てのファンタジー小説(およびいくつかのSF小説)を含む壮大な物語である。中でも、その中核を為す『エルリック』は、コナンとは正反対の「脆弱な都会人」、しかも「混沌に属する魔法使い」というアンチ・ヒーローを主人公に配してみせたところが画期的だった。
 一方、ル=グィンの『ゲド戦記』は、中心人物である魔法使いゲドの成長物語として始まり、世界の安定を巡る壮大なドラマへと発展していった。
 いずれの物語も、単純な善悪二元論に陥らない価値観が物語に奥行きを与えている点が新鮮であった。

 このように新たな傑作が生まれた一方で、『指輪物語』の安直な模倣であるトールキン風異世界ファンタジーの氾濫によって、駄作もまた大量に生み出されることとなった。
 当時ル=グィンは、この状況を「エルフランドからポキープシへ」というエッセイで、痛烈に批判している。
 彼女の主張は、これらの『指輪』模倣作では、「異世界(エルフランド)での物語としなくても、アメリカの片田舎(ポキープシ)を舞台としても成り立つ」というものであった。
 逆に言えば、優れた異世界ファンタジーは、我々の住む現実の世界とはまったく異なる自然や文化を持つ異世界が、緻密に構築されているものであるべきだ、ということになる。

 さて、日本における現代的な異世界ファンタジーの歴史は、高千穂遙の『美獣』と栗本薫の『グイン・サーガ』が相次いで発表された一九七〇年代後半を起点とする。
 北欧神話を模した世界を舞台に、美獣と呼ばれる戦士が大暴れする『美獣』も、大国同士が睨み合う大陸の辺境に突如現れた豹頭の戦士が大活躍する『グイン・サーガ』も、無敵の戦士を主人公としている点、背後にSF的な設定を隠している点等々、ハワードの『コナン』から大きな影響を受けている。
 またこの二作に続くように、ひかわ令子が『エフェ&ジリオラ』を発表し始める。こちらは、主人公が二人組であることも含めて、ライバーの『ファファード&グレイマウザー』に大きな影響を受けている。
 すなわち、日本における異世界ファンタジーは、アメリカ的なヒロイック・ファンタジーの影響下に生まれたのである。
 さらに、それらに続いて八〇年代末に登場、人気を博したのが、ゲームの世界観を下敷きにした物語だった。
 元々はテーブルトークRPGのシナリオから始まった水野良の『ロードス島戦記』や、コンピュータRPGの世界観を茶化すような形で取り入れた神坂一の『スレイヤーズ』や深沢美潮の『フォーチュン・クエスト』といった作品が大人気となり、今ではライトノベルと呼ばれている青少年向け小説の分野を、発展させることとなった。

 このように、日本の異世界ファンタジーは、英米の異世界ファンタジーから多大な影響を直接的に受けており、その世界観も中世ヨーロッパ風であった。
 一九九二年、そんな和製異世界ファンジー界に、東洋的な世界観を持ち込み、大きな変化をもたらしたのが、中華風異世界を舞台にした二つの作品だった。
 その一つが、古代中国を舞台にした歴史ファンタジー『長安異神伝』でデビューした井上祐美子の『五王戦国志』であり、もう一つこそが、本作『十二国記』なのであった。
 それまでのヨーロッパ中心の異世界ファンタジーでは登場することのなかった漢字の固有名詞、中華風の事物等々の採用は、単に珍しいだけではなく、疑似西洋中世的なお約束から、設定や物語を解放するものであり、新たなオリジナリティの飛躍であった。
 こうして日本に生まれた中華風異世界ファンタジーは、ろくごまるにの『封仙娘娘追宝録』や雪乃紗衣の『彩雲国物語』といった後継者を生みつつ、今やサブジャンルとして定着している。『十二国記』は、その始祖にあたるわけだ。

 さて、そんな『十二国記』だが、実は、既存の異世界ファンタジーとは大きな断絶と呼べるものが一つある。
 それは、その世界観があまりに人工的なことだ。
 幾何学的な土地と、きれいに等分割された国境線。木から生まれる生き物たち。見えない手で自動化されている麒麟と王による統治システム等々。
 通常の異世界ファンタジーにおいては、異世界を構築するにあたって、作者はできる限り不自然さを排しつつ、なおかつ異質な世界を作り出そうとするが、『十二国記』においては、不自然な人工性はそのままの形で提示されている。
 これこそ、『十二国記』が連綿と紡がれてきた異世界ファンタジーというジャンルの枠を、破壊してはみ出しかねない特異性なのだと筆者は考える。
 モリスの『世界のかなたの森』からおよそ百年。『十二国記』は、異世界ファンタジーの歴史から若干逸脱したところに屹立する、異色の作品なのである。

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