エメリッヒ版「ゴジラ」プレミア鑑賞記2題
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1998年、ローランド・エメリッヒ監督によるアメリカ版「ゴジラ」の公開に先駆け、ニューヨークで大々的に行われたワールドプレミアに、集英社インターナショナルの『月刊プレイボーイ』からの依頼で取材に行ったあと書いたモノ。
結局、『月プレ』だけじゃなくて、パンフレットにも原稿を書くことになったんで、二つまとめてアップします。
このときは、別件でアメリカに来ていた柳下毅一郎さんと現地でばったり(つっても、映画合わせでゴジラのおもちゃを真夜中に売り出したおもちゃ屋の前で会っちゃったとゆー、すんごいおたくな会い方だったんですけどw)会って、そのままご飯食べに行ったり、
しかし、怒ってるな~、このときの私。いや、エメリッヒ版「ゴジラ」が傑作だという気は一ミリもないんですが、それにしてもこのときの日本人たちの叩きっぷりの、あまりのナショナリズムに、正直辟易してしまっていたもので。
つか、今年公開されるガレス・エドワーズ版「ゴジラ」にはものすごく期待してて、一刻も早く観たいんですけど、今回はこういう取材の仕事は回ってこなくて残念至極。
いや、今からでも、飛行機のチケットさえ用意してくれたら、ロサンゼルスならすぐ行きますよ!>取材。どっかないすか?!(^_^;)
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「ゴジラ」パンフレット用原稿
「ニューヨークがゴジラに占領された日」
一九九八年五月十八日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(以下MSGと略す)では、ローランド・エメリッヒ監督によるアメリカ版『ゴジラ』のワールド・プレミアが、映画史上最大の規模(なにせ会場は、NBAやプロレスの試合が行われるスポーツの殿堂である巨大スタジアムなのだ)で行われていた。この夏の話題を一人占めしている作品とあって、通常は試合が行われる一階のフロアに座席を敷き詰めたVIP専用の一階席には、マシュー・ブロデリックやジャン・レノといった出演俳優たちはもちろん、ニック・ノルティ、サラ・ジェシカ・パーカー、ヘレン・ハント、チョウ・ユンファ、ダニー・アイエロといった映画スターたちや、ジュリアーノ現NY市長をはじめとする政治家、さらにはモハメド・アリやニューヨーク・メッツの吉井投手らといったそうそうたる顔ぶれが集まっていた。さすがに会場が広すぎて、筆者のようなマスコミ関係者や一般客が座る二階席からでは、一階席の様子があまりわからなかったのがかえすがえすも残念。なにせMSGなんだもん。でかい双眼鏡か何か持っていくべきでした。
さて、映画が進み、いよいよ後半のクライマックス直前、ジャン・レノとマシュー・ブロデリックが地下道にかかった看板を見上げるところがスクリーンに映し出された瞬間、MSGにつめかけた観客たちのあいだから、一斉に大きな声が上がった。その看板に「マジソン・スクエア・ガーデン」と書かれていたからだ。なんと今回の『ゴジラ』ではMSG内部が重要な舞台の一つであり、ワールド・プレミアはそのシーンを実際のMSG内で観るという仕掛けになっていたのである。
なんといっても、この仕掛けを楽しめたのは、後にも先にもワールド・プレミアに参加した人間だけなのだから、それだけでも行った価値はあったというもの。
実は、筆者はさらにこのあと、翌十九日の先行ロードショー(First Showing)にも駆
けつけて、今度は映画館のスクリーンでじっくりと細部を楽しんだ。ちなみに、この先行ロードショーでは、カード型の限定版チケット(中にフィルムのポジ入り)が配られ、いやが上にも雰囲気は盛り上がっていた。
さらにこの日の深夜、正確には公開初日となる20日の午前0時から、セントラル・パーク前にある大型おもちゃ店のF.A.O.シュワルツでは、モンスター・ミッドナイトと称して店を開き、ゴジラ関連トイの全世界特別先行販売を行った。公開ギリギリまで新ゴジラの姿を伏せておくため、オモチャやTシャツといったグッズ類の販売も公開当日まで控えることになっていたので、このイベントがゴジラ・グッズの初お目見えなのだった。筆者も眠い目をこすりつつ、両手に抱えきれないくらい買い物してしまい、はっと我に返ってから「これ、どうやって持って帰るんだ~~」と今度は頭を抱えるていたらく。いや、意地になって全部持ち帰りましたけどね。
そして、翌二十日、ついにアメリカ版の新『ゴジラ』は記録に残る全米最高の上映スクリーン数で大々的に全国公開を始めた。そう、まさにこの三日間は〈ゴジラづくし〉の夢のような三日間だったのだ。ああ、おもしろかった。
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『月刊プレイボーイ』
「「ゴジラ」ワールドプレミア観賞記」
一九九八年五月十八日午後六時。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)の前は、ハリウッド製作の新『ゴジラ』の完成披露試写会にやってきた有名人たちの乗る高級車と、彼らを一目見ようと集まった野次馬たちとで、ごったがえしていた……らしい。
らしい、というのは、実は筆者は一足先に会場であるMSGの中に入ってしまっていたからで、外の様子は場内のスクリーンに映し出されてはいたものの、いまひとつ実像はわかりかねたからだ。
壁面を一つつぶしてまるまる巨大なスクリーンをおき、一階のフロアすべてと、残る三面の二階席をすべて客席として巨大な試写会場と化したMSGに、続々と集まるニューヨーカーたち……というと、かなりの盛況だったように聞こえるが、さすがにMSGは広い。市長をはじめとする政治家や、映画俳優といったVIPが座る一階席は満席となったものの、私のようなマスコミ関係者や一般客が座る二階席の上の方はそこそこ空席が目立っていた。まあ、一日待てば先行ロードショー、二日後には本格封切りするんだから、無理してMSGで見ることはないか、と思うのも無理はないところかも。しかし、今回の新『ゴジラ』に関しては、MSGで見ることの意義が十二分にあったのだが、それについては後述しよう。
肝心の映画俳優たちも、出演者を除けばニューヨーク在住の、いわゆる非ハリウッド系の人たちが何人か来ていただけ(ダニー・アイエロとか、家族連れてきてただけなんでないの?)で、盛り上がりに欠ける感じ。ニューヨーク市再建の立役者、やり手で名を売る(映画の中のエバート市長とは大違いの)ジウリアーニ市長はほくほく顔だったみたいだけど、そりゃまあ『ゴジラ』の撮影で儲かったし、宣伝にもなるだろうしね。ともあれ、世界最大のワールド・プレミアと銘打ったわりには、正直言うと盛り上がりに欠けた感のある試写だったわけで、こんなんで『ゴジラ』大丈夫なのか、って危惧はこの時点ですでにあった。もっとも、同時期にロサンゼルスに行っていた友人によれば、ロスの方はこの頃『ゴジラ』で大いに盛り上がってたというから、単にニューヨーカーたちがこの手の映画に冷たいというだけのことなのかもしれない。
さて、肝心の映画の方だが、はっきりいって、意欲は買うが詰め込みすぎの割に隙の多い脚本がつらい。とはいえ、それって実はエメリッヒ作品すべてに共通してる欠点ではある。今さら、毎度お馴染み、エメリッヒとデブリンの共同脚本に、スマートな頭の良さや論理的な整合性を求めてもしかたないのは、誰だって充分承知しているはずだ。
前作『インデペンデンス・デイ』では、そういうお話の矛盾や稚拙なところを、圧倒的な映像的迫力と観客の感情を揺さぶるヒロイズム溢れる演出でカバーしていたわけだが、今回はそこがうまくいっていないのが問題。序盤ではオリジナルの『ゴジラ』(五四年の第一作のこと)をなぞりすぎてるし、ニューヨーク上陸後の中盤では、ゴジラを生物としてリアルに描こうとするあまり、「怪獣」らしさが抜け落ちて、『ゴジラ』のリメイクなんだか『原子怪獣あらわる』なんだかわからなくなっているしと、つまりは中途半端にシリアスすぎるのである。
結局、エメリッヒの映画というのは、オーバーなアクションを楽しみつつ、ゲラゲラ笑いながらジェットコースターのような高揚感を得られるところがウリなのだが、今回の『ゴジラ』は話が加速するのが少しばかり遅いのだ。逆に言うと、後半、つまり九〇分を過ぎ、舞台がMSG内に移って以降(そう、なんと後半の大きな山場はMSGの中で展開するのだ。ワールド・プレミアで見た人は、自分の今いる場所が作品中に登場して思わず爆笑という仕掛けだったのである)は、エメリッヒ印全開の爆笑アクションがつるべうちで、息つくひまもないほど笑わせてくれるので元を取ったような気持ちになれる。
特撮も、せっかくCGを導入したはいいものの、その出来が不安だったのか、圧倒的に夜のシーンを増やし、常に雨が降っているという設定で画面を昼でも暗くしている逃げの姿勢には問題を感じる。いや、予算内で仕上げようと努力してるのはわかるんだけどね。あまりにあからさまでしょ、あれは。
等々、探せばいくつも粗がある……というより、エメリッヒらしい雑な映画に仕上がっているので、お世辞にも傑作とか佳作とか言えた義理ではない。しかしそれでも、七〇年代の低予算「対決」シリーズはもちろん、『ゴジラVSキングギドラ』以降の「平成ゴジラ」シリーズにおける、頭がおかしいとしか思えない子供だましのストーリーに比べれば、一〇〇倍見どころはある映画なのは確かだ。「あんなのゴジラじゃない」と不評の新デザインも、生物っぽい設定も、それなりの決断だったと思う。だって、それじゃわざわざCGで今までのゴジラとよく似た体型のモノを作ればよかったのか、ってことになるではないか。そりゃ違うでしょ、やっぱ。
すでに、傑作であった五四年版『ゴジラ』の栄光は日本においても遠い過去のモノとなってしまっている。それはその後のゴジラ・シリーズ二十一作を見てきたファンにとっては、あまりにもあきらかなことのはずだ。次から次へと現れる新怪獣と戦っては海へ去っていくゴジラの姿からは、とうに昔日の神話性など抜け落ちてしまっているのだ。
ならば、今、新たに『ゴジラ』をリメイクするために、全く違ったコンセプトを用意したことは、結果はともあれ前向きに評価するべきだろう。それを「あんなのゴジラじゃない」と切って捨てるのは、あまりに近視眼的すぎる。
このようなことを、つらつら書いたのも、私同様『ゴジラ』を見にニューヨークに来ていた日本人諸氏の多くから、上記のような「ゴジラはやっぱり放射能火炎を吹かなきゃ」、「ばんばん建物を壊さなきゃ」、「もっと頭が小さくてかっこよくなきゃ」等々といった意見を聞かされて、少々うんざりしてしまったからだ。 まさか、怪獣映画の製作でナショナリズムが発露するところを見せつけられるとは思わないではないか。そんなにゴジラ・シリーズって、世界に向かって胸を張って誇れるようなもんなんでしょうか?
本誌の読者諸兄には、ぜひともそういう国粋主義的な先入観だけは持たずに、新鮮な気持ちで『ゴジラ』を見に行ってほしいと思う。 新たな「ゴジラ伝説」が紡ぎだされていくためには、まずそうやって過去の亡霊から解き放たれることこそが重要だと信じている。
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