SFとしてのスター・トレック

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 2002年、早川書房の『SFマガジン』に書いたモノ。当時アメリカで放送されていた「スタートレック エンタープライズ」特集の中で、それまで作られたスタトレの膨大なエピソードを、そのSF性という観点からセレクトし、紹介しています。

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〈宇宙大作戦〉、〈新スター・トレック〉、〈スター・トレック ディープ・スペース・ナイン〉、〈スター・トレック ヴォイジャー〉と続いてきたTVシリーズ版〈スター・トレック〉の最新作〈エンタープライズ〉は、他のシリーズと違い、遠い未来から時間線に干渉しようとしている謎の敵が設定され、連続ドラマの要素が今まで以上に強くなっている。
 それは、単に一話完結もののドラマから連続ものドラマへの重心のシフトというだけでなく(連続ドラマとしてはすでに〈ディープ・スペース・ナイン〉が、「対ドミニオン戦争」という大枠に沿った展開を、シリーズ後半で生みだしている)、〈時間改変戦争〉という強烈なSF的テーマを作品の縦軸に盛り込んだことで、これまでのシリーズよりさらにSF性が高くなっているということだ。

「時間流冷戦」の尖兵たちによって繰り返し企まれる歴史改変に対し、何が正しい未来なのかを知るべくもなく戦う羽目になる〈NX01エンタープライズ〉の乗組員たちの活躍は、昔懐かしいスペオペに例えるなら、ジャック・ウィリアムスンの『宇宙軍団』と『航時軍団』がセットになったようなもの。テレビドラマだと思って甘く見ていると、話に置いてきぼりを食らいかねない波瀾の展開が見物なのだ。
 いや、現実との関わり(番組の設定が現実の社会情勢を反映していることや、番組が持つ現実の社会に対する強い影響力など)がとかく取り沙汰される〈スター・トレック〉だが、実際にはこれまでのシリーズにおいても、SF的に優れたエピソードは数多く作られている。本稿では、主にいまだ食わず嫌いを通して〈スター・トレック〉に親しんでいないSFファン諸氏を対象に、そのSF性を紹介していきたい。

〈スター・トレック〉にたびたび登場するSFガジェットの中でも、最も印象的なものが時間テーマだろう。この時間テーマがシリーズ全体のバックボーンとなっているのが、前述の〈エンタープライズ〉なわけだが、元々〈スター・トレック〉は〈宇宙大作戦〉の昔からタイムトラベルやタイムパラドックスをくり返し取り上げているのだ。

 特に、〈宇宙大作戦〉第二八話「危険な過去への旅(ハヤカワ文庫版タイトル「永遠の淵に立つ都市」)」は、ハーラン・エリスンが脚本を書いたことでも有名な傑作。二〇世紀中葉のアメリカにタイムスリップしてしまったカーク艦長等〈エンタープライズ〉の乗組員が、そこで出会った女性の生死を巡って苦悩するという話。彼女が死なないと歴史は正しい方向に進まず、大きく狂ってしまうことを知ったカークが、罪もない女性を見殺しにしていいのか、思い悩むことになる。

 この「正しい歴史を守るために犠牲を強いていいのか」という、〈時間改変〉ものの定番テーマは、〈新スター・トレック〉第六三話「亡霊戦艦エンタープライズC」でもくりかえされる。ここでは、ピカード艦長率いる〈エンタープライズD〉の前に、突然一世代前の航宙艦〈エンタープライズC〉がタイムスリップしてくる。何十年も前にロムラン人との戦闘で撃沈したはずの〈エンタープライズC〉が時空にできた穴から未来に出てきてしまったことで歴史は改変され、宇宙連邦とクリンゴン帝国が全面戦争を続ける悲惨な世界ができあがってしまう。この状況を元に戻すには、〈エンタープライズC〉を元の時代に帰すしかないのだが、それは〈エンタープライズC〉の乗組員に「ロムランと戦って死にに行け」ということと等しく、ピカードはどうすればいいのか思い悩むことになる。

 さらに衝撃的なのは、〈ヴォイジャー〉の最終回である第一七一、一七二話「道は星雲の彼方へ」だろう。この話は、宇宙を放浪していたはずの〈ヴォイジャー〉がすでに地球に帰還して長い年月が過ぎ、過去を悔いている年老いたジェインウェイ艦長の姿から始まってしまうのだ。〈ヴォイジャー〉の地球帰還をやり直し、死んでしまった多くの乗組員を助けようと過去に戻る未来のジェインウェイ、未来からの干渉に対立する現在のジェインウェイ、執拗に〈ヴォイジャー〉を追う〈ボーグ〉が三つどもえとなり、時間改変を巡って激しい対決となる。

 もっとも、同じ登場人物と舞台設定によるシリーズものという作品の枠組みがあるため、実は(時折、任務に失敗したりレギュラーメンバーが死んでしまったりすることもあるが)基本的には各エピソードはハッピーエンドを迎えることになる。したがって、意外な結末を作ることは難しいわけだが、〈スター・トレック〉のスタッフは、逆転の発想からストーリーを組み上げている。つまり、いかに意外な発端から、どうやっていつもの世界観へと着地することができるかを見せようというのである。
 前述の〈ヴォイジャー〉の最終回はその典型的な例の一つだし、同じ〈ヴォイジャー〉の第一一二話「崩壊空間の恐怖」もすごい。話が進む内、次々にレギュラーメンバーが死んでいき、何の解決の糸口も見いだせないまま後半へと突入していくのだ。もはや、ここまでくると夢落ちくらいしかないのでは、と思わせておいて、二〇話も前から伏線を張ってあったあっと驚くエンディングを迎える手腕は、強引と言ってしまうにはあまりにも鮮やかだ。

 また、この手の「不条理」ネタでは、〈新スター・トレック〉第一四七話「呪われた妄想」が最高に素晴らしい。〈エンタープライズD〉内で乗組員による素人演劇(カフカを思わせる不条理劇!)の稽古をしていたはずのライカー副長が、突如、異星の精神病院に収容されていることに気づく。一体どちらが現実なのか。そりゃ、〈エンタープライズD〉にいる方のライカーが現実に決まってるじゃん、と視聴者がなめて見ていると、一回、二回とどんでん返しがくり返されて、オチが全く見えなくなっていく。まるでディックの小説のような筋立ての大傑作だ。

 もちろん、〈スター・トレック〉は基本的には宇宙を舞台にしたSFなのだから、異星人や異文化とのコンタクトも重要なテーマの一つである。
 中でも〈新スター・トレック〉第八九話「ファースト・コンタクト」は、異星文明とのファースト・コンタクトを〈エンタープライズD〉の側からでなく、異星人たちの側から描いてみせた逆『未知との遭遇』とでも言うべき佳作。我々視聴者も〈エンタープライズD〉の側に立ってドラマを見ているから、当然自分たちが「円盤に乗って宇宙からやってきた緑の小人」の立場に立つわけで、使い古されたテーマも視点を変えれば新鮮な物語になるという好例だ。

 また、〈新スター・トレック〉第一〇二話「謎のタマリアン星人」は、言語体系がまったく地球の言語と異なる異星人とのコミュニケーションを描いていて、個々の単語どころか文章も翻訳可能なのに、相手が何を言いたいのかまったくわからないという、れっきとした言語学SF。どんなによく似た知性でも案外コミュニケートは難しいということを表現しているところがおもしろい。

 異なる知性体といえば、異星人だけではない。〈新スター・トレック〉のデータ少佐は喜怒哀楽の感情を持たないアンドロイド(自らの感情を押し殺している〈宇宙大作戦〉のスポック副長と正反対のキャラ)だし、〈ヴォイジャー〉の艦医であるホログラム・ドクターは、純粋なコンピュータ・プログラムである。
 データは〈新スター・トレック〉第三五話「人間の条件」で、単なる機械として複製を作る研究に提供されそうになり、ピカードがその人権を擁護すべく訴訟を起こす。

 また、〈新スター・トレック〉以降、新技術として導入されたホロデッキは、そのプログラムとして作り出された仮想人格がまれに自らの意志を持つようになり、事件が巻き起こる。
 たとえば、〈新スター・トレック〉第二九話「ホログラムデッキの反逆者」、第一三八話「甦ったモリアーティ教授」では、シャーロック・ホームズの有名な敵役であるモリアーティ教授(の人格プログラム)が、その天才的な知性によって自分がプログラムに過ぎないことを知り、ホロデッキの外の世界に出ていこうとする話だし、〈ヴォイジャー〉第一五五、一五六話「裏切られたホログラム革命」は、虐待の対象とされ、何度となく殺されていたホロデッキ・プログラムたちが、その境遇から逃げ出そうとする物語である。
 これらのエピソードはいずれも、彼らのような人工の知性も生命と認め、権利を認めるのかという問題を、繰り返し「知性とは何か」というSF的大命題として取り上げられているのだ。

 さて、ホロデッキといえば、何でも実体を持ったヴァーチャル・リアリティとして構築できる夢の仮想空間装置だが、その舞台設定を用いた愉快なパロディもたくさん生まれている。
〈新スター・トレック〉第一二話「宇宙空間の名探偵」は、ハードボイルドのパロディ(原題The Big Goodbye(大いなるお別れ)は、もちろんレイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』と『長いお別れ』のもじり」)だし、前述の「ホログラムデッキの反逆者」はホームズ・パロディ(原題はホームズの口癖をもじった「初歩だよ、データ君」)となっている。

 また、〈新スター・トレック〉一三四話「ホロデッキ・イン・ザ・ウエスト」は、西部劇のパロディで、非番の時に息子とホロデッキで西部劇ごっこをしようとしていたクリンゴン人のウォーフ少佐が、ホロデッキの故障で本当に命をかけた早撃ち対決をする羽目になる。原題のA Fistful of Datas(手のひらいっぱいのデータ)は、『荒野の用心棒』の原題A Fistful of Dollars(手のひらいっぱいの金)のもじりだが、だからといって後半、すべての仮想キャラがデータ少佐そっくりになってしまう展開は大爆笑。

 一方、〈ディープ・スペース・ナイン〉第八二話「ドクター・ノア」(邦題は『007/ドクター・ノオ』のもじりだが、原題Our Man Bashirは『電撃フリント』Our Man Frintのもじりと、さらにマイナーでマニアック)はもちろんスパイものパロディだし、〈ヴォイジャー〉ではなんと『キャプテン・プロトン』なる『バック・ロジャーズ』と『フラッシュ・ゴードン』を足して二で割ったようなスペース・オペラもののホロデッキ・プログラムが登場して、スペオペファンを狂喜させた。
 このような、まさにアンダースン&ディクスンの〈ホーカ〉シリーズもかくやという自由自在なパロディもまた、SFならではの設定を生かしたお楽しみだと言えるだろう。

 ここまで見てきたように、〈スター・トレック〉は様々なSF的ガジェットに、幾重にもひねりを加えることで新しいアイデアストーリーを生み出し続けている。
 しかも〈スター・トレック〉は、そういったSF性の濃いエピソードを連続ドラマ的なエピソードの中に混ぜ込み、同一登場人物によるシリーズものというわかりやすいフォーマットの上に乗せて、毎週アメリカ中の家庭へと送り続けているのである。その教育効果たるやすさまじいものがある。かの国において、八〇年代以降SF的なアイデアが広く一般に普及しているのは、〈新スター・トレック〉以降のシリーズの影響に他ならないといっても過言ではないのだ。

 というわけで、今までなんとなくテレビのシリーズものだということで〈スター・トレック〉を敬遠してきたSFファンの人々にも、新シリーズ開幕を機にぜひとも〈スター・トレック〉の世界を探検してもらいたい。ただし、DVDプレーヤーとCSアンテナは必須です。

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