スペース・オペラからミリタリーSFへ ~宇宙冒険SFの系譜~

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 2001年、『新・SFハンドブック』に書いたもの。後半、以前にnoteにアップした「ミリタリーSF略史」と内容がかぶっていたりしますが、あっちはミリタリーSFを中心にその始まりから書いてるんですけど、こちらはスペース・オペラの始まりから、それが廃れて後継者としてミリタリーSFが流行りだした、というあたりに力点を置いてます。

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 ピーター・ニコルズとジョン・クルートのThe Encyclopedia of Science Fiction(1995)によれば、最初に「スペース・オペラ」という言葉が使われたのは一九四一年。使ったのはSF作家のウィルスン・タッカーだという。

 元々「~~オペラ」という言い方は、テレビが普及する前のラジオ全盛期のアメリカで、お昼時に放送されていた連続モノのメロドラマの多くが石鹸粉の会社によって提供されていたことから、安手のメロドラマを「ソープ(石鹸)・オペラ」とバカにして呼ぶことに始まった。今でもアメリカでは、お昼時にテレビで放送される連続ドラマ(日本で言うところの「昼メロ」である)をソープ・オペラと呼んでいる。
 そこから派生して、やはり定型にとらわれすぎた単調な勧善懲悪型の西部劇を「ホース(馬)・オペラ」と呼ぶようになった。タッカーはそれをもじり、SF的なガジェットで味つけされてはいるものの、内容は勧善懲悪型の冒険活劇を「スペース・オペラ」と呼んでバカにしてみせたわけだ。
 だが、実際にこの手のSF風冒険活劇の最盛期は二〇~三〇年代であり、タッカーがスペース・オペラと名づけた四一年にはすでに過去のモノとなりつつあった。つまり、スペース・オペラという言葉は、侮蔑的な意味だけではなく、生まれたときからすでに過去を懐かしむノスタルジックな響きも持ち合わせていたのである。

 では、全盛期のスペース・オペラを代表する作家は誰かといえば、やはり《スカイラーク》(第一作『宇宙のスカイラーク』(1928))と《レンズマン》(第一作『銀河パトロール隊』(1937))の二大シリーズを生み出した“ドック”スミスことE・E・スミスだろう。
 銀河を二分して善と悪とが対峙し、シリーズが続くに連れて、敵がさらに強大になり、新兵器が登場し、宇宙船が巨大化し、アクションの規模もどんどんエスカレートしていく。このエスカレーションの愉悦は、ある種単純ですらあるが、だからこそ少年たちにとっては抵抗しがたい魅力を持っている。それは現代日本の少年マンガの手法ともよく似ている。
 しかし、多くの少年マンガがそうであるように、このエスカレーションにはマンネリ化の危険がつきまとう。実際、スミスも《レンズマン》の最終巻である『渦動破壊者』(1960)や《スカイラーク》シリーズの最終巻である『スカイラーク対デュケーヌ』(1966)では、かなりの息切れを起こしている感は否めない。

 もう一人、当時のスペース・オペラを代表する作家を挙げるとすれば、それはエドモンド・ハミルトンだろう。
「衝突する太陽」(1928) 、「太陽強奪」(1929) 、『銀河大戦』(1929)などの《星間パトロール》シリーズを含めた二〇~三〇年代の作品で、繰り返し恒星を爆破し惑星を破壊し続けたハミルトンは、まさに「世界の破壊者」だった。
 ただし、ハミルトンの代表作である《キャプテン・フューチャー》シリーズは、第一作の『恐怖の宇宙帝王』が発表されたのが一九四〇年であり、すでにスペース・オペラの最盛期が過ぎ去ったあとだった。作品の内容的にも、ヒーローとその仲間たちの設定、そして舞台設定、そして物語の展開などにおいて、いわゆる「スペース・オペラ的」なるものの総まとめといった感がある。つまりかなり自覚的に書かれた「スペース・オペラ」であるという点が、最盛期のスペース・オペラと違うところだろう。
 さらにハミルトンは、『スターキング』(1947)において古典的活劇小説であるアンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(1894)をSF仕立てにしてみせたり、《スターウルフ》シリーズ(第一作『さすらいのスターウルフ』(1967))では非情な主人公が活躍するハードボイルド仕立てにしてみせたりと、手を変え品を変えつつ六〇年代後半まで読むに足る宇宙活劇を書き続けてみせた。

 一方、ハミルトンのような例外を除くと、先に述べたようにスペース・オペラの時代は三〇年代末で終わりを告げた。名編集者ジョン・キャンベル・ジュニアが主導する「科学技術小説」の時代がやってきたのである。
 単純明快な冒険活劇は、もっと複雑で意外性に満ちた物語に道を譲ることとなった。四〇年代を代表する宇宙を舞台にした大長編がアシモフの《ファウンデーション》シリーズの初期三部作だと言えば、その違いが読者にもわかっていただけるだろう。

 もちろん、スペース・オペラのような活劇が完全に姿を消したわけではなかった。たとえばジャック・ヴァンス(『大いなる惑星』(1957)他)やポール・アンダースン(『鳥人大戦争』(1958)他)などのエキゾチックな冒険SFや、サミュエル・ディレーニイ(『ノヴァ』(1968)他)やバリントン・ベイリー(『カエアンの聖衣』(1976))のような絢爛豪華なワイドスクリーンバロックなどがあるし、ラリー・ニーヴンの《ノウンスペース》シリーズのような宇宙SFが「ニュー・スペース・オペラ」と呼ばれたりもした。
 だが、これらの作品には、全盛期のスペース・オペラが持つ素朴で強烈なヒロイズムが決定的なまでに欠けていた。
 そして、それらを受け継いだのが、現在のいわゆる「ミリタリーSF」なのである。

 では「ミリタリーSF」とは何か。たとえば、《レンズマン》などでも敵との大規模な「戦争」が描かれている。そういった「戦争を描いたSF」と「ミリタリーSF」はどこが違うのだろう。筆者は以下の三点が重要な条件だと考えている。

(1)主人公が軍人である。
(2)戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3)戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。

 特に(2)の「戦争それ自体がテーマである」というのがミリタリーSFの最大の特徴だろう。つまりミリタリーSFとは、戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、戦争という行為そのものを題材としてとらえ、作者自身の戦争観をさらけ出している作品のことであり、だからこそそこに強烈なヒロイズムが生まれるのである。

 そういったミリタリーSFの走りとも言えるのが、ロバート・ハインラインの『宇宙の戦士』(1959)だ。意思の疎通が不可能なクモに似た形態の異星種族に対して徹底的なせん滅戦を挑む地球軍の姿を、最前線の一兵士の視点から描いたこの作品は、その後のSF映画やアニメに多大な影響を及ぼした〈パワードスーツ〉に代表される未来兵器の描写の確かさもさることながら、あらゆる手段を講じ断固勝利しようとする軍隊特有の思考方法を徹底的に書き込んでいる点において、まさにハインラインの戦争観をそのままに表していると言ってよい。そこがまたSFファンのあいだで本書の評価を大きく2分することになった要因でもあろう。

 さて、『宇宙の戦士』発表の翌年の一九六〇年、ゴードン・R・ディクスンが、自身の代表作となる一大叙事詩《チャイルド・サイクル》シリーズの第一作目を発表した。このシリーズは完成時には過去・現代・未来のそれぞれの時点を舞台にした大長編となり、人類の進化していく姿を描き出すことになるとされていた(ディクスンの死によって未完となり、結局過去編と現代編は書かれなかった)。このシリーズでは、傭兵を生業とする〈ドルセイ〉と呼ばれる人々の活躍が描くことで、人間の持つヒロイズムを尊ぶ側面を拡大して映し出している。

 ハインラインとディクスンの作品が、それまでの戦争を扱ったSFと格段に違ったところは、未来の宇宙を舞台にしているにもかかわらず陸戦を主体として描き、一人の英雄の活躍ではなく集団としての軍隊の戦い方を追究したところにある。そのリアルっぽい迫力が、元々の宇宙活劇、すなわちスペース・オペラとはひと味違う新味となって、多くの読者を獲得したわけだ。

 しかし、こうしたミリタリーSFに対する激しい批判もまた生まれてきた。
 ハリイ・ハリスンが六五年に発表した『宇宙兵ブルース』は、辺境の惑星に住むのんびりした青年ジムが、軍隊に入り冷酷非常な(つまり優秀な)軍人になるまでを、全編ブラックジョークを交えて描き、軍隊という組織の非人間性とヒロイズムの愚かさを痛烈に皮肉った。それは同時に『宇宙の戦士』に対する辛辣な意見ともとれた。

 さらに七四年、ヴェトナムでの従軍経験を経たジョー・ホールドマンは『終わりなき戦い』を発表、『宇宙の戦士』と類似した状況をさらにリアルに、大局を知らされず前線に投入される一兵士の悲哀をじっくりと書き込むと共に、戦争から帰ってみると祖国の状況が一変していたという、当時のベトナム帰還兵たちが直面した状況を、ウラシマ効果というSF的な設定を用いて拡大化して映し出してみせた。

 だが、八〇年代に入り「強いアメリカ」を標榜するレーガン大統領の時代になったことで、軍事的な事柄に対する世間の興味は復活、それと同時に新たなミリタリーSFの時代も到来した。その新たな書き手たちの代表格がジェリー・パーネルとデイヴィッド・ドレイクである。

『デイヴィッド王の宇宙船』(1981)や、『宇宙の傭兵たち』(1977)に始まるファルケンバーグ大佐率いる傭兵部隊の活躍を描いたシリーズ、『地球から来た傭兵たち』(1979)に始まるシリーズなど、パーネルにはミリタリーSF系の作品は数多い。
 パーネルの作品に多く見られる特徴は、彼が政治的対立を解決する最終手段として、愚かだとは判っていながらも戦争行為が行われてしまうことを諦観していること、そして純粋に戦争における戦略や戦術の問題に強い興味を示していることにある。

 一方のデイヴィッド・ドレイクは、七九年に開始したHammer's Slammersシリーズで一躍人気作家となり、以後続々と宇宙を舞台にした傭兵たちの活躍を描いた小説を発表している。彼の作品の特徴として、軍人としてのプロフェッショナリズムと、個々の戦闘の描写のみを追究している点があげられる。そういう意味では、作者の戦争観、歴史観、人間観が縦横に盛り込まれたディクスンの《チャイルド・サイクル》ものとは対極の作風だと言えよう。

 かくして、一時は様々なシリーズもの(中にはラリー・ニーヴンの《ノウン・スペース》シリーズから派生したThe Man-Kzin Wars(1988~)などというシェアード・ワールドものまである)が乱立していたミリタリーSFだが、九〇年代に入って再び新しい流れが生まれてきた。
 それは、八六年の『戦士志願』に始まるロイス・マクマスター・ビジョルドの《マイルズ・ヴォルコシガン》シリーズ。そして、それに続けとばかりに、九〇年代に入って登場し、矢継ぎ早に巻を重ねて、それぞれに人気を博しているデイヴィッド・ウェーバーの《紅の勇者オナー・ハリントン》シリーズと、デイヴィッド・ファインタックの《銀河の荒鷲シーフォート》シリーズなどである。

 これらのシリーズには、いくつかの共通点がある。特に、主人公の属する国家の体制がいずれも王政などの前近代的なものに逆行してしまっている点が新しい。従来のミリタリーSFならば、悪役を振られてしまっていたような国家の軍人が物語の中心にすえられているのである。これらのシリーズの主人公たちは。大なり小なりそうした自国の社会体制に悩まされながらも、祖国として愛するが故に守ろうとする。その姿は、純粋にアメリカ的正義を信じ、それを守ることの喜びを謳い上げたハインラインの『宇宙の戦士』から隔世の感がある。
 これは、正義の味方や一匹狼のアウトローが活躍する全盛期のスペース・オペラとも、八〇年代の民主主義バンザイ式のミリタリーSFとも明らかに違う。
 また、軍隊の制度や戦闘時の戦術など、あきらかに古き良きイギリス帝国海軍を描いた帆船小説へのオマージュがある点も共通している。スペース・オペラがホース・オペラ(西部劇)を宇宙に移したものだとすれば、現代におけるミリタリーSFの神髄は、海戦主体の帆船小説を宇宙に持ってきたものだということかもしれない。

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