小説とアニメ、それぞれの『星界』

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 2001年、早川書房の『星界の戦旗読本』に書いたもの。
『星界の紋章』の原作小説とアニメ版とを比較しつつ、脚色についての教科書的な本を孫引きしながら、原作のあるものを映像化するとはどういう作業なのか、なぜ原作そのままではないのか、について解説を試みてみました。
 うまく伝わってるかどうかは自分じゃわからないんだけど、小説と映像作品とは、メディアが違うことによって、必然的にその作品構造も違ってくるし、作り手はそこを変えるべきなんですよね。でもって、読者や視聴者は、積極的にその違い比較しながら楽しむようにした方が楽しいはず、ということを言ってみたかったりしたのでした。

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 私がアニメ版『星界の紋章』を最初に見たのは、放映直前に開かれた小規模なSFコンベンションだった。
 たしか、出来たてのほやほやの第1話を、原作者の森岡浩之さんが特別に持ってきてくれて、コンベンションの参加者全員で見たように記憶している。最初の印象は「かなり忠実に原作を映像に移し替えてるなあ」というものだった。
 だが、上映後のゲスト座談会で野田昌宏さんが、この第1話の出来をほめながらも「原作の冒頭が好きだったんだよねえ。地球から乗ってきた移民用宇宙船が、今は人工衛星みたいに衛星軌道に漂ってて、それがある日突然爆発するっていう書き出しが、なんともSFでさあ。アレを映像ではできんもんなのかねえ」というようなことをおっしゃったのを聞いて、なるほど熱烈な原作ファンにとってはそういう意見もあるのかと思った覚えがある。
 すでにアニメ版『紋章』の第1話をご覧になった方はご存じかと思うが、アニメ版においてもこの場面自体は存在している。オープニングクレジットの直後、第1話本編はまさに移民船〈レイフ・エリクソン〉の爆発から始まっているのだ。
 ただし、アニメ版では宇宙船の爆発の様子が描かれるものの、それがどんな船でなぜそこに浮かんでいたのかについては、何も触れられていない。
 一方、原作ではその船〈レイフ・エリクソン〉が太陽系外移民のための船であり、それに『乗りこむことは「どこかよそで生きてくれ」と送りだされることを意味していた』ことや、何世代もかけて宇宙をさすらったすえに見つけた惑星マーティンに植民を開始した人々が、記念碑として〈レイフ・エリクソン〉を軌道上に繋留したことなどが書き込まれている。
 原作ではこの短い行数に、世代間宇宙船が何百年もかけて宇宙を往く姿が、そしてその船に託した人々の想いが描かれている。だからこそ、その直後の『その〈レイフ・エリクソン〉がなんの前触れもなく爆発する』という一文が効いてくる。それをなんとか映像でもできなかったものか。あのとき、野田さんはそう言いたかったのだろうと私は思う。
 しかし、それではアニメ版におけるこの場面の描写は間違っていたのだろうか。アニメ版では、〈レイフ・エリクソン〉爆発からアーヴ艦隊による惑星マーティン包囲までが、ほとんど一気に描かれている。マーティン側の反応も多少出てくるが、基本的にはアーヴ側メカによる侵攻の様子を畳みかけるように映像で見せつけており、アーヴからの通告やそれに対するマーティン政府の反応などは原作と順序を変えて後ろにまわされている。つまりアニメ版では、なるべく説明を省き速いテンポの映像で見せることで、アーヴのマーティン侵攻の迫力と、その唐突さを表現しているのである。
 このアニメ版第一話の演出意図が、(オープニング前に置かれたアヴァンタイトルの原作にはない戦闘場面も含めて)冒頭からアクション・シーンを立て続けにつないでいき、視聴者に強烈なインパクトを与えようということなのは明白だろう。
 これは、何ヶ月にもわたって毎週放送されるテレビアニメの第一話を視聴者に印象づけるためには、たいへん論理的な選択であり、実際印象的な仕上がりとなっている。原作とは見せ方が違うが、これはこれで「あり」なのだ。
 このように、小説を映像化する場合、大小さまざまな改変が加えられることとなる。これは、それぞれの表現方法(文章と映像)が違うため、それぞれに適した作劇が求められるからだ。

 では、どうすれば小説の本質を損なわないまま、映像表現に適した形に改変できるのか。それについて、ハリウッドの著名なシナリオ・アナリストであるリンダ・セガーが、The Art of Adaptation: Turning Fact and Fiction into Film(実話や小説を映像化するための脚色技法)という本を書いているので、これに沿って話を進めてみたい。
 この本の中でセガーは、小説と映像の相違点を七項目にまとめている。そのそれぞれについて、〈星界〉シリーズの原作と対比しながらまとめると以下のようになる。

1.テーマの重要性。
 映像作品においてはテーマは物語に従属する要素だが、小説においてはテーマこそが重要であり、往々にしてテーマが物語の進行を圧倒する。
〈星界〉シリーズにおいては、主人公であるジントの精神的な成長が物語の鍵の一つとなっており、控えめにではあるが折に触れ彼の心情が語られている。
2.ディティールの構築。
 映像作品は音と絵の両方で情報を提供するため、速いテンポで大量の情報量の描写が進行するが、小説はすべて文字で表現するため、その場面の状況を説明しようとすればするほど細かいディティールを具体的に文章で記述していかないといけない。
〈星界〉シリーズのSF的な魅力の一つに、艦隊戦などのアクション描写がある。原作ではまさにセガーの指摘通り、戦闘のディティールが文章で詳細に表現されている。
3.ナレーターの存在。
 映像は基本的に神の視点で描かれるが、小説においては、常にその情景を記述しているナレーター(特に視点人物の指定がない場合は作者自身)が存在する。
〈星界〉シリーズにおいては、基本的に作者がナレーターであり、必要に応じて場面の描写から離れて世界観の記述や登場人物の内省の記述を自在におこなっている。
4.内省の記述。
 映像では登場人物の内面における感情の流れを表現することは難しいが、小説では自在にそれを記述できる。
〈星界〉シリーズでは先に書いたとおり、主に主人公のジントの感情が折に触れ作者によって記述されている。
5.小説は情報源でもある。
 映像は直線的であり、物語の進行に不要な情報は表現しづらい。小説はいくらでも物語の舞台となる世界や人物の周辺情報を記述することができ、物語としてだけでなくある事実に関する情報源ともなり得る(たとえば時代小説はその舞台である時代の情報を満載している)。
〈星界〉シリーズは遠未来の宇宙という異世界を舞台にしたSFであるため、その世界がいかなる世界であるか、アーヴとはどんな人々であるのか等といった情報を読者に伝えるために、大量の記述があり、それが魅力の一つとなっている。
6.時間の流れが不定である
 映像は基本的に過去から未来へ順序よく時間が流れていくが、小説の中の時間は自在に前後に飛ぶことができる。映像でもフラッシュバックによって回想場面を作ることは可能だが、それは物語の流れを止めてしまう。なぜなら、映像は常に現在を映し出しているものだからだ。
 この点だけは〈星界〉シリーズにあてはまらない。外伝である『断章』の短篇群を除くと、物語は常に一定の時間線上を前に向かって進んでおり、物語中で過去の場面にフラッシュバックを起こすこともほとんどない。
7.視点人物の存在
 小説においては往々にして視点人物が存在し、その目を通して物語が語られる(この場合、ナレーターと視点人物は同一である)。映像は基本的に神の視点で描かれるため、小説ほどきちんと視点人物を規定できない。
 先に書いたとおり〈星界〉シリーズにおけるナレーターは作者だが、視点人物は基本的に主人公のジントであり、彼が登場する場面はすべて彼の視点で描かれている。

 さらにセガーは、このような相違をもとに、、映像化において注意すべき点を以下の四項目とし、これらを念頭において原作を注意深く改変することを薦めている。

A.物語を見つけだす。
 その小説が何についての物語なのか、筋立てを整理して抽出する。
B.登場人物を選択する。
 小説における多数の登場人物を整理し、本当に必要なキャラクターだけを抽出する。
C.テーマを追求する。
 その小説の最も重要なテーマが何なのか抽出し、物語の焦点をそれに合わせる。
D.スタイル、ムード、トーンを作り出す。
 映像や音響に、物語に合った一定のスタイルを与え、統一感を持たせる。

 AからCはいずれも、複雑になりがちな小説作品を簡略化し、そのエキスだけを抽出するための手法である。
 先の七項目のまとめに書いたように、〈星界〉シリーズは主人公であるジントの精神的成長を中心に展開している。したがって、AからCの点については、ジントを中心に物語をまとめることで解決するはずだが、元々〈星界〉シリーズは原作自体があまり脇道にそれていかないし、テレビシリーズ化ということで物語を語るのに充分な尺も使えるので、ストーリー自体は原作通りに展開して良いことになる(これが、たとえばトルストイの『戦争と平和』のように大部でしかも登場人物が山のように出てくる小説を三時間の映画にまとめろということになると、大鉈を振るわねばならないわけだ)。
 要はそれを「どう表現するか」(つまり項目D)が重要になってくる。具体的には、ジントを中心人物とした原作の小説的な手法は、先の七項目で言うと1、3、4、7の四項目にあたる。これをどう映像的な表現に移し替えていくかが肝となるわけだが、アニメ版では実にスマートな処理をしている。基本的には画面は神の視点ですべての人物を描いているが、できるだけジントの姿を追うようにして、さらに時折ジントのモノローグを挿入することで誰が視点人物なのかを明確にしている(『紋章』第六話で、ラフィールが「アーヴの微笑」を浮かべるところで、その場にいないジントのモノローグで笑みの意味を解説させているところは典型的な例だ)のである。

 一方、残りの項目2、5、6について、アニメ版はどうしているだろうか。
 6の「時間の流れ」については、実は原作よりもアニメ版の方がフラッシュバックを多用している。小説よりも映像に適した表現の一つである細かい場面転換をうまく利用しているのだ。
 たとえば『紋章』冒頭の部分は原作では時間順に描かれているが、アニメ版第一話では、途中で一旦、成長したジントの姿を見せてから、もう一度ジントが子供の時のアーヴ侵攻の様子に場面を戻すことで、作品世界内における現在がいつであるかを、早い時点で視聴者に提示している。
 また、『紋章』前半の山場である巡察艦〈ゴースロス〉爆散の場面では、原作では戦闘場面が完全に終わったあとに、先に脱出したジントとラフィールの場面が続くが、アニメ版では双方の場面が交互に描かれ、艦の爆散を知らないジントたちの会話の哀しさが強調されている。

 項目2と5、つまり「ディティールの表現」と「情報の提示」は、小説の映像化における一番の難題だろう。だいたい、小説は読み返すことができるが、映像はどんどん流れていってしまうから、あまり複雑な説明をしてしまうと視聴者が混乱してしまう。絵で見てパッとわかることが望ましいわけだ。
 たとえば、〈星界〉シリーズを特徴づけているものの一つに、〈アーヴ語〉がある。この、作者によって作られた人工のオリジナル言語によるルビがさまざまなセリフや固有名詞につけられていることで、〈星界〉シリーズはその異世界的なエキゾチズムを増幅させているのである。
 しかし、これを映像作品に反映させることは難しい。小説ではルビという手法を使えるからこそアーヴ語のカタカナ表記とその日本語表記が併記でき、意味と発音の両方を一度に理解できる。しかし映像化の場合、それを忠実に再現するには洋画のように字幕が必要となる。つまり音声でアーヴ語を聞かせ、文字で日本語を読ませるわけだが、これは視聴者の注意を本来の絵と音以外のものに向けさせてしまうことになる。洋画は吹き替えの方が見るのが楽なのと同じことだ。また、日本語の会話の中で固有名詞だけアーヴ語に入れ替える方法もあるが、これを多用しすぎると一体何を話しているのか、視聴者にわからなくなってしまう。
 アニメ版〈星界〉では、この問題を回避するため、本編中からすっぱりアーヴ語を追い出し、日本語のみの会話に統一している。その代わり、毎回のアヴァンタイトルには必ずアーヴ語によるナレーションを字幕つきで流し、原作の持つエキゾチズムをそこで表現するという手法をとっている。これも映像作品らしい工夫の一つだろう。

 また、〈星界〉シリーズをスペース・オペラとして見た場合、何といっても出色なのは平面宇宙というアイデアを使った超光速航法だろう。この新たな概念によって〈星界〉シリーズは独特の戦略・戦術観を持つミリタリーSFにもなっている。そして、アニメ版においてもっとも印象的な場面となっているのも、この平面宇宙における戦闘場面なのだ。
 平面宇宙は、原作では以下のように紹介されている。
「超光速航行の秘密は平面宇宙[ファーズ]という、通常宇宙[ダーズ]とはべつの物理法則が支配する宇宙にあった。その名のとおり、二次元の空間と一次元の時間で成り立つ宇宙である。アーヴの恒星間宇宙船は時空泡[フラサス]につつまれて異質な宇宙を渡る。時空泡はきりとられた通常宇宙であり、ちょうど四次元時空のなかに縮小化された六次元連続体が存在するように、平面宇宙のなかでも存在を許されるのだ」
 つまり、平面宇宙はその名の通り二次元の空間であり、立体は存在し得ないことになる。したがってこの空間を図式化した場合、『戦旗1』の巻末につけられた「平面宇宙勢力図」のような2次元の地図となる(もっとも、ここで問題となるのはこの空間には高低差はないものの時空粒子流によってそれに近い位置エネルギーの高低ができているところだ)。
 立体が存在しない世界での戦闘をどうやって絵として見せるのか。
 アニメ版〈星界〉では、戦闘場面を完璧に二分することによってこの問題をクリアしてみせた。その鍵は時空泡にある。先の引用によれば、時空泡は通常の空間である。つまり、外側は二次元だが、その内側は三次元空間となっているわけだ。
 アニメ版では、平面宇宙内での宇宙船や機雷の動きについては、すべて探知機のモニターに二次元画像として映し出された時空泡の形(厳密に言えば、それを図式化して表示したもの)としてのみ描き、実際にそれを外から見たときどう見えるかは一切表現していない。
 そして、敵味方の時空泡が接触して融合したときだけ、戦闘機のドッグファイトのように普通の三次元空間での戦闘場面として描いている。当然、このときカメラの視点は艦の外側にある。
 こうすることで、平面宇宙という世界の特異性と、宇宙船同士の迫力ある戦闘場面とを、互いに矛盾することなく描いているのである。

 長々と書いてきたが、このようにアニメ版〈星界〉シリーズは、原作のエッセンスを映像化に適した形で移し替えているわけだ。ここで述べたポイント以外にもそうした工夫は随所に見られ、それが原作とアニメ版との差異となってあらわれている。その微妙な差異を楽しむことこそ、いわゆる「原作つき」映像作品を見る歓びだろう。読者諸兄もぜひ今一度、新たな観点から原作とアニメ版を再読・再視聴し、比較する歓びに浸ることをお薦めしたい。

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