SFとノベライゼーション

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 1999年、早川書房の『SFマガジン』のSF映画特集用に書いたもの。本文中に書いたように、当時、ビデオグラムの普及で通常のノベライズは減りつつあったものの、代わりに二次ノベライズが大ブームとなっていたのですが、それもつかの間のこと、いまやアメリカではあらゆるノベライズなるものはほぼ商売としてなりたたなくなっているようで、出版点数も激減してしまっています。盛者必衰ですなあ(遠い目)。

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 唐突だけど、読者のあなた、ノベライゼーション、すなわち映像作品の小説化って、どれくらい読んだことあります?
 最近じゃ超大作はおろか、ちょっと話題になってる映画なら大抵はノベライゼーションが出てる上に、当然すぐにビデオ化やLD化されるから、あんまり一生懸命ノベライゼーションを追いかけようって人は少ないかもしれない。
 とはいえ、これほどビデオが普及する前、そう、今からほんの十数年前までは、名画座とノベライゼーションだけが映画の感動を再体験できるメディアだったわけだ。また映画と違って、TVドラマのように、それこそ一回見逃すと再放送されない限りどうにもならない作品の場合もノベライゼーションは貴重な情報源だった。
 今となっては、ビデオで気軽にオリジナルの映像を見ることが出来るものを、わざわざノベライゼーションで読むことの意味というのは、明らかに減っているが、それでもやはり映像とは違う小説版を読んでみることの楽しみというものは消え去ってしまったわけではないし、なんといっても一番手軽に楽しめるという点は今でもかわらない。

 さて、一口にノベライゼーションと言っても、その有り様は様々だ。
 まず、最も基本的なタイプとして、映像版の脚本を忠実に再現しているものがある。繰り返しになってしまうが、昔はノベライゼーションしかなかったものだから、このタイプのものが、どれだけ元の映像作品の雰囲気を伝えてくれるか、が結構重要に思えたものである。
 例えば、今でこそ筆者の部屋には「宇宙大作戦[スタートレック]」の全話LDがドドンと鎮座ましましてて、いつでもどの話でも見ることができる(こうなると、不思議なことにあんまり見なくなっちゃうんだよなあ、困ったことに)が、昔はTVの深夜枠の再放送を期待する(これがたまにやっててもナイター中継が延長したりしたせいで、放送されなくて何度泣かされたことか)か、ジェイムズ・ブリッシュの書いたノベライゼーション(「地球上陸命令」他、すべてハヤカワ文庫SF)に頼るしかなかったものだ。

 もっとも、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」で採った、いわゆるマルチメディアなマーチャンダイジング(しっかし、胡散臭い言葉だなあ、こりゃ)が成功して以降、ノベライゼーションは映画には不可欠なセット商品となっているため、促成栽培で映画の公開にきちんと合わせてノベライゼーションを出すことが当たり前になってきている。
 このため、とにかく脚本を忠実に小説に置き換えただけ、つまり筋は追いかけているものの、中身はスカスカなノベライゼーションが量産されているのも確かだ。

 また一方で、独自の情報を書き加えているノベライゼーションもある。これには、映像では語られていなかった情報を(まあ、オタク的な言い方をすると裏設定というヤツですな)小説化の際に書き足したものと、ノベライゼーションの筆者がさらに小説としての深みを増すためにストーリーを書き加えたもの、またあくまで映像と文章は別ということで独自の展開をみせるもの(それをノベライゼーションと言っていいのかどうかは疑問だが)などがある。
 これの代表的な例はなんといってもアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」(ハヤカワ文庫SF)だろう。映画の方が、見る人の判断に任せる形で説明らしいセリフを極力省いて作られているのに対して、このノベライゼーション版ではクラークのビジョンが確固とした形で読者に提出されている。
 また、オースン・スコット・カードの手による「アビス」(角川文庫)のノベライゼーション版も、映画の中では語られなかった主要登場人物たちの過去や内面描写を掘り下げることで、物語に深みを与えている。
 さらに例をあげると、ヴォンダ・マッキンタイアが手がけた「スタートレック2」「同3」「同4」(すべてハヤカワ文庫SF)のノベライゼーションは、サイドストーリーとして映画の中では名前も与えられていない若い機関員と機関長であるスコットの物語を書き込むことで、物語全体の連続性を強め、情感を増すことに成功している。

 ところで、こうして例をあげているものと区別しづらいのが、脚本に従って書かれたのに、完成した映画とは一部分が違っているノベライゼーションだ。
 先に述べたように、ノベライゼーションというものは通常、映画の公開に合わせて出版されるため、その執筆のための資料として大抵は撮影前の決定稿を用いるのだが、その後、撮影中、もしくは撮影後の編集作業中に、様々な理由で変更が加えられることも多い。
 このため、映画と違う部分を持つノベライゼーションが出来上がるわけで、そのへんを注意しつつ読みながら、映画製作過程をあれこれ想像してみるのもノベライゼーションの楽しみの一つだろう。
 有名な例としては「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス著、角川文庫)がある。編集段階でカットされてしまった主人公の幼なじみの出番が、ノベライゼーションの方ではしっかり残っているのだ。
 また、筆者が前からどうも怪しいと思っているのが「ロボ・コップ2」(エド・ナーハ著、二見文庫)。ナーハは前作「ロボ・コップ」(ハヤカワ文庫SF)のノベライゼーションも担当しているのだが、こちらでは前後にオリジナルの短いプロローグとエピローグを加えているものの、本編自体は素直に映画通りに小説化している。ところが、続編のノベライゼーションでは、途中の場面の順番が映画と食い違っている上に、映画にはなかった主人公の息子の出番が挿入され、それに伴ってラストシーンも映画とはまるで違うものになっているのである(はっきり言って、映画よりも出来が良い)。
 映画の「ロボ・コップ2」がどうにも話の展開がぎくしゃくとぎこちなかったのと、あまりに唐突なラストシーンだったのを考えると、業を煮やしたナーハが書き替えたくなったとしても不思議ではない。とはいうものの、ノベライゼーションを請け負った者の改変としては変更箇所が多すぎるので、撮影中か編集中に、監督のアーヴィン・カーシュナーが脚本をいじってしまった可能性の方が高いんじゃないか、などと考えて筆者は楽しんでいるのだが、本当のところはともかく、こういうのもまたノベライゼーションの楽しみ方の一つなのだ。

 映画を作っているうちに内容が変わると言えば、原作つき映画のはずが、映画製作過程でどんどん元の話と変わっていって、原作とは似ても似つかないものになってしまうことも多い。
 まあ、どうしても映画化の際、原作が短編ならエピソードを膨らませないといけないし、長編の場合は逆にストーリーを刈り込んでやらないと平均的な映画の上映時間である2時間以内に収まらなくなるため、こういうことも起こりやすいのだが、こんなとき、原作とは別に映画のストーリーに沿ったノベライゼーションが新たに出版されるのを二次小説化[セカンダリイ・ノベライゼーション]という。
 古い例だと「007/新・私を愛したスパイ」(クリストファー・ウッド著、早川書房、原作はイアン・フレミングの「007/私を愛したスパイ」ハヤカワ文庫ミステリ)、新しいところで言うと「JM」(テリー・ビッスン著、角川文庫、原作はウィリアム・ギブスンの『記憶屋ジョニイ』ハヤカワ文庫SF「クローム襲撃」所収)あたりがそれにあたる。
 こうしたセカンダリイ・ノベライゼーションの楽しみは、ズバリ原作との違いを小説の形で比較できることで、映画化の際に原作のどこを生かし、どこを捨てているかを知る手がかりになる。

 ここまでは一応元の映像作品のストーリーを小説化したものに話を限っていたが、最近ではさらにタイアップ(ほんとは英語だとタイインが正しいんだっけ)商品として、映像作品の舞台設定やキャラクター設定だけを借りて新たなストーリーを展開するスピンオフ・フィクションと呼ばれる小説群も続々と出版されている。
 その中でも質量共に群を抜いているのが、スタートレック関連の小説で、日本でも翻訳されている「宇宙大作戦」「新宇宙大作戦(新スタートレック)」のオリジナル小説(共にハヤカワ文庫SF)の他にも、現在アメリカでTV放映されている2シリーズ「スタートレック:ディープ・スペース・ナイン」、「スタートレック:ボイジャー」などのシリーズが続々と刊行されている。

 これと対抗するかのようにここ数年急ピッチで刊行が進んでいるのが、ついに新作映画製作が決定した(って、何回言われたかは忘れたけどさ)「スター・ウォーズ」シリーズ(翻訳は竹書房文庫)だ。映画四作目の企画が進行中の「インディアナ・ジョーンズ」シリーズのオリジナル小説(翻訳は竹書房文庫)と並んで、ジョージ・ルーカスの2大ヒット作は出版界でも金のなる木らしい。
 しかしまあ、これらの小説がある程度売れていること、アメリカTV界は未曾有のSFドラマ・ブームであること(これも「新スタートレック」の成功が一因なのだが)、数年前まで流行っていたシェアードワールド小説が退潮気味なことなどが重なって、ここのところ、アメリカではスピンオフが花盛りである。ちょっと思いついただけでも「ダークマン」、「バビロン5」、「Xファイル」、「シー・クエスト」等々、TVや映画の人気シリーズは軒並み小説化されていると言っていいくらいだ。

 それにしても、TVシリーズを元にしたものは、TVと同じ登場人物を使ったスピンオフ・フィクションばかりで、TVのストーリーのノベライゼーションがほとんどないのは、やはりビデオの普及によって、いくらでも録画して見直すことが出来るようになったからなのだろうか。少し寂しいような気もする(のは、筆者の年のせいか?)。
 今回はSF映画特集ということなので、ノベライゼーションというかスピンオフ・フィクションのもう一つの流れであるロールプレイングゲームやコンピュータゲームの小説化についてはあえて紹介しなかった。また、日本の作品についても特に言及しなかったが、まあ状況としてはアメリカと似た感じだと言っていいだろう。
 ともあれ、本というメディアが存在し続ける以上、今後も映画、TV、ゲームなどといった様々なメディアにおけるSF作品のノベライゼーションは出版され続けるのは間違いない。
 どうです。暇があったら読者諸兄もノベライゼーションをもっと読んでみませんか?新たな発見があるかも知れませんよ。

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