「日本沈没」(2006)パンフ原稿

【投げ銭システム:有料に設定されていますが、無料で最後まで読めます。最後まで読んで「気に入ったから投げ銭あげてもいいよ」と思ったら、購入してやってください】

 2006年、リメイク版のパンフレットに書いたもの。
 主に、原作、最初の映画版、テレビドラマ版、そしてリメイク映画版、それぞれ展開やエンディングが違うというところを解説しています。テレビドラマ版の最終回、最後のカットがけっこう衝撃的な幕切れなんですよね。というわけで、がっちりネタバレしてるので、気になる方は読んじゃダメ。

--------------------------------
「時代を越えて魅力を放つコンテンツ『日本沈没』」

 1973年に小松左京が小説『日本沈没』を世に問うてから、33年の時が過ぎた。
 当時、この小説は大ベストセラーとなり、同じ年に公開された最初の映画版もまた記録的なヒットとなった。さらには、テレビドラマ、ラジオドラマ、そしてコミック版までが作られ、それぞれに人気を博した。
 まさに一世を風靡した感があるその『日本沈没』が、今また現代を舞台に映画化され、それに合わせるように新たなコミック版の連載が始まり、さらには原作の正統な続編小説『日本沈没 第二部』が小松左京と谷甲州の合作として発表された。なぜ今、またしても『日本沈没』なのだろう? なぜこの物語は、様々なメディアでくり返しリメイクされては、そのたびに人々を引きつけるのだろうか?

『日本沈没』の物語が、70年代当時の人々を熱狂させた要因の一つとしてよく挙げられる点に、ちょうどあの頃、高度経済成長に陰りが見え始めていた日本の姿に、強烈な破滅のイメージを二重写しにしてみせたこと、そして、「危機において日本人はどのような行動をとるか」を問いかけることで、秀逸な「日本人論」を展開したこと、などの要素がある。
 だがそれら以上に、「日本が沈没してしまう」という実に単純かつ力強い筋立てそのものに、時代を越え、国を越え、人々を怯えさせながらも惹きつける魅力が秘められていると考えるべきではないだろうか。なぜなら、<日本沈没>というモチーフは、地震という恐るべき自然災害のメタファーであるのは明白であるからだ。

 ここで、原作、最初の映画版、テレビドラマ版、そして今回のリメイク映画版が、それぞれどのように<日本沈没>を描いているのか、比較してみたい。

 原作『日本沈没』は、日本各地で頻発する地震の描写と、その原因を調査する田所博士と小野寺らの姿を並行して描く。そして、物語のほぼ中盤で田所博士が初めて「最悪の場合--日本列島の大部分は、海面下に沈む」と告げると共に、関東地方を大地震が襲い、東京を阿鼻叫喚の地獄絵に変えてしまう。その後、ようやく日本人の大脱出計画へと進んでいくのだが、日本沈没まであとたった10ヶ月という恐るべき計算結果が提示されるのは、後半も半分に近づいた頃、つまり全体の4分の3まで話が進んでから。これは、作者の小松左京が、「日本列島が海の底に沈む」という、あまりにも荒唐無稽な設定を読者に自然に受け入れさせようと、少しずつ日常を崩壊させていく構成を取っているからなのはあきらかだろう。そして、日本が沈んでしまったあと、恋人の玲子が消息不明となってしまった小野寺がひとり、半死半生で熱にうなされながら、シベリア鉄道でロシアの奥へと運ばれていくところで終わる。

 73年の映画版も、この原作とほぼ同じ構成を取っている。だが2時間半弱の映画に、原作の持つ文庫本上下二巻分の膨大なディテールは到底収まりきらず、どうしても主要登場人物である田所や小野寺の周辺を追いかけるだけで精一杯という感もなきにしもあらずで、名もない人々の悲劇を点描していた部分が、抜け落ちてしまったのは残念だった。そして、原作との最大の違いは、ラストで玲子が生きている姿を見ることができるという点だ。<日本沈没>の混乱のなか小野寺と引き離された玲子もまた無事に日本を脱出、列車に乗っていずこかへと去っていくのである。

 一方、テレビドラマ版は、全26話という長尺をフルに生かして、災害のディテールを積み重ねる方向で、大きく原作を改変。日本が沈没するという事実を早い回でさっさと明かすや、日本各地を小野寺たちが飛び回り、毎回地震や火山の噴火、土地の陥没などに見舞われた地域の人々を救助してまわるという救急スペクタクルとして描いていた。そして、原作や映画版では中盤の見せ場だった東京の崩壊をラスト3話に持ってきて、最後にして最大のクライマックスとしている。小野寺たちの運命も原作や映画版とは大きく異なり、何と、懸命に救助活動に走り回ったあげく、東京に取り残された小野寺と玲子の二人が、生きて日本を離れることができるかどうか、不明のまま、物語は終わりを告げてしまったのである。

 いずれにせよ、これら70年代の作品は、まず第一に<日本沈没>という希有壮大なSF的アイデアを借りて、日本人の心のうちにあった災害に対する漠然とした不安感を見せつけたのだ。当時、すでに終戦から30年近くが過ぎ、戦争の傷跡もその記憶も薄れつつあった日本においては、米ソの全面核戦争による人類の絶滅や、日常に根ざしていない、ある意味非現実的な恐怖も含めて、日常が一瞬にして破壊されるような自然災害や大規模テロはまだまだ「いつか起こるかもしれない」不安でしかなかった。『日本沈没』は、その不安を直撃してみせたのだ。

 そして、今回のリメイク版映画である。
 相次いだ大震災やテレビで生中継された同時多発テロ……今や日本人にとっても、日常の崩壊は遠いフィクションの世界の物語ではなくなってしまった。また、地殻の構造や地震の仕組みについても、一般に知識は広まり、なによりも<日本沈没>というアイデア自体が作品そのものによって広く知れ渡ってしまっている。リメイク版は、そういう時代の変化に合わせた形で、実に大胆に原作を改変した。
 冒頭を、地震による火災現場におけるレスキューの場面から始めたのも、<日本沈没>の発見を早々に明かしてしまい、ほぼ全編その対策を描く方向に振ってみせたのも、もはや我々には、原作や最初の映画版における前半部は、不要であると判断したからだろう。
 さらに前作では令嬢だった玲子を、よりアクティブなレスキュー隊員に設定したり、逆に小野寺のほうを潜水艇の操縦以外のことにはあまり興味を示さない静かでおとなしい人物にしてみたりと、キャラクターの性格を現代的に置き換えているところもおもしろい。

 ところで何よりも驚くべきは、もっとも大きな変更が為されたラストだが、これは小松左京のもう一つの代表作『さよならジュピター』を彷彿とさせるものだ。もともと『さよならジュピター』は、「日本人」を「地球人」に置き換えた『日本沈没』の宇宙版であり、「日本人の未来」を「人類の未来」へと拡大した壮大な再話であって、主要キャラの性格や配置、事件の規模と危機対処の描き方なども似通っている。つまりは、『日本沈没』において小松左京が描いた<日本人>とは、リメイク版映画において石坂浩二扮する首相が言うように「日本人である前に人間」として生きる存在なのであり、このグローバルな視点にこそ、『日本沈没』がいまだに多くの人々を魅了し続けている理由があるともいえそうだ。

 そのことを如実にあらわしているのが、33年ぶりの続編小説『日本沈没 第二部』である。物語の舞台は、日本が沈没してから25年後。今や日本人たちは世界に散り、それぞれに苦難の日々を過ごしている。そんな中、国土こそないものの未だ存続中の日本政府は、かつて日本列島が存在していた海域にメガフロート(人工島)を建造、領土として宣言しようとする。一方で、その日本政府が所有している大型コンピュータ「地球シミュレータ」は、かつて日本が沈没した際の火山活動によって「核の冬」現象が起こり、近い将来氷河期が訪れるという、恐るべき地球環境の激変を予測する。そして小野寺はもちろん、死んだと思われていた玲子も登場、主要人物は、今度は地球規模で生じた人類絶滅の危機に立ち向かっていく……。
 この第二部では、舞台設定こそ日本が70年代に沈んでしまった「もう一つの地球」ではあるが、それを利用して今度は「日本人全員が国際人たらねばならない世界」を描写、グローバリゼーションが進んだ今の世界において「日本人はいかにあるべきか」というきわめて現代的な問いかけを読者に仕掛けているのである。

 かつて『日本沈没』が投げかけたテーマは、安全神話が崩壊しつつある現代においては、70年代以上の切実さを持って人々に訴えかけてくるようになった。この時代を超えた普遍性こそが『日本沈没』の持つ魅力であり、この物語が幾度となくリメイクされる原動力なのだ。

【本文はここでおしまいです。内容を気に入っていただけたなら、投げ銭に100円玉を放ってるところをイメージしつつ、購入ボタンを押してやっていただけると、すごく嬉しいです。よろしく~】

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?