【那須】北温泉(一) 雪の秘湯
わたしの好きな温泉宿のひとつに〔北温泉〕があって、これは那須の、知る人ぞ知る有名な秘湯のひとつ。
これまで5度は行った。
アメニティ類など一切期待してはいけない程の秘湯で、江戸末期から明治、昭和にかけての古い建物が複雑怪奇に入り組んでいる。
もうこれだけで、わくわくが止まらない。
継ぎ足し継ぎ足しで増築されたであろう建物は、もう迷路の態をなしていて、
「探検だー!」
山に囲まれ、谷間の複雑な地形をのたくるように伸びているおかげで、内部構造が変化に富んでいて、何度来ても飽きない。
さて。
何度かリピートしたこの〔北温泉〕だけど、一度だけ真冬に訪れたことがあって、そりゃもう……最高だった。
わたしの車は冬装備がないので、レンタカー屋さんでスタッドレスタイヤ装備の車を、わざわざレンタルする必要がある。
なにしろ傾斜のきつい山間部にあるし、しかも確実に積雪が半端ないから。
さて到着したなら、駐車場からは、5分ほどの細道を歩いて行かねばならない。
これままた……雪深くて、人が通らなければ、すぐに雪が降り積もってふかふかになり、一歩ごとに足が大きく沈む。
人が通って踏み固められた道もまた難儀で、油断すればツルンと滑って、多少なりとも痛い思いをする羽目になる。
真冬なのに、じっとり汗をかく。
すぐ脇には渓流。
そうしてようやく辿り着くと、四方を山に囲まれた〔北温泉〕が、年月を経た木造建築として黒くたたずむ光景に出会える。
右側には温泉プールが、ほのかな湯気をたてている。
◯
そうやってたどり着いた温泉は、実にもう……風情がゆたかで、さっそく、すぐ脇に渓流を見下ろせる〔河原の湯〕へ身を沈めると、
「来て……よかった」
真正面には、間近へせまる山の斜面。
見下ろせば早瀬の渓流。
空は全面が白くぼんやり光る空と、舞い降る雪。
湯のすぐそば、渓流と温泉を隔てる瀟洒な木組みの塀には、小さなつららがびっしり連なっている。
それを、ぽきんと折っては湯へ入れてみると、またたく間に溶け消える。
これだけのことでも、数々のハードルを超えて来た甲斐がある。
この写真は夏。別の友達と行った時のもので、宿の人にお願いして撮らせてもらったもの。
平日だし、ちょうど他に入っているお客さんがいなくてラッキーだった。
部屋へ戻る途中、コンクリート床に猫が寝そべっていた。
「冷たくないのかな?」
そろり近づいてみると、どうもその直下に温泉が流れているようで、床へ触れてみると、見た目に反してほんのり温かい。
そりゃ、猫も気持ち良さげに昼寝するわけだよね。
◯
さて、この時に泊まったのは、江戸時代(幕末、安政年間らしい)の部屋。
とはいっても内部は綺麗にリフォームされているので、
「恐れてたような隙間風、ぜんぜんないね」
「こたつもあったかくて、助かるよね」
ぬくぬくと二人で過ごしていたところへ、宿の人が、ぬっと現れ、
「お客さん、レンタカーでいらっしゃいました? それらしい車がライト点けっぱなしだよって、他のお客さんから教えてもらいまして……」
やべえ!
この宿に来てから、どれくらい時間が経った?
来る時、ずいぶん雪が降ってたからライトを点けて走行してたけど、駐車場へ到着したとたん安心して、その事実をすっかり忘れちまったみたい。
まだ昼間だし。
急いで宿から飛び出すと、雪に足許をとられつつ、必死に駐車場へ。
他の季節なら歩いて5分の道のりが、こんなにも果てしなく遠いなんて……。
靴の中へ雪のかたまりが入り込み、それが溶けては、靴下を容赦なく濡らす。
二本の脚は、あっという間に疲労し、手をつきながら這うように進む。
心臓が早鐘のよう。
ぜいぜいと呼吸すると、氷の冷たさの空気が肺を刺しまくって、胸全体が鈍痛に覆われる。
やっとのことで、こんな雪景色の中で汗だくになりつつもレンタカーへたどり着いたら……やっぱり、ライトが堂々と点灯しっぱなしになっていた。
恐る恐る、エンジンをかけると……よかった、まだバッテリ切れじゃない。
危うく、翌日の帰りに絶望を味わうところだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?