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わたしの宵山万華鏡

2022年9月9日にTwitterスペースにて開催された『偽読書会』で言いたかったことを文章にしました。

⚠️ネタバレあり

【妄想の被害者あるいは参考文献】





湿った風、老若男女のざわめき声、聳え立つビルディング、夜を照らす屋台の明かり、赤くて艶々した丸い林檎飴、硬い感触に甘い匂い…宵山の一瞬を文章にしようとすると言葉を延々と紡ぐことになる。


祇園祭の雑踏


このような言葉で現しきれない一瞬を《純粋経験》という。《直感》とも言い換えられる。

西田幾多郎の哲学はこの《直感》から世界や神について考えられるのが面白い。

まず《直感》があり、それを《反省》することによって「私は宵山にいる」と言葉にできる。

それを繰り返すことで「私は確かに宵山にいる」という《自覚》になっていく。

さらには屋台を眺めたり林檎飴をかじったりなど自分の行動から得た経験から《行為的直感》というものも獲得する。

人間は絶えずこの運動をぐるぐるしている。

皆がこのようなことをしているので当然のことながら世界が矛盾していく。

『宵山万華鏡』という本を例としてみると…

『宵山万華鏡』は作者の森見登美彦が宵山を経験したことによって書かれた本だ。「『宵山万華鏡』は宵山から作られたもの」である。

しかし『宵山万華鏡』を読んだ読者は本によって宵山を体験する。そうすると、読者の胸中においては「『宵山万華鏡』は宵山を作った」ことになる。

読者は実際に京都の祭に赴き宵山の雑踏を作り上げたりもする。またしても「『宵山万華鏡』は宵山を作った」ことになる。

「『宵山万華鏡』は宵山から作られたもの」「『宵山万華鏡』は宵山を作ったもの」
どちらも事実であり矛盾している。

世界は矛盾している。

森見ファンによって形成された雑踏


また、私も、目の前の誰も彼も、代替え品のないただひとつの《個》である。

同じように私が宵山で噛った甘い物もただひとつの《個》である。

西田哲学に《場所》という考え方がある。「有るものは何かしらの《場所》において有る。」というものである。

冒頭の宵山の一瞬を例にすると。

私が有る。少し欠けた甘い物も有る。

私という旅行者が有る。
旅行者は人間という場所に有る。
人間は生物という場所に有る。

この甘い物は林檎飴という場所に有る。
林檎飴は林檎という場所に有る。
林檎は果物という場所に有る。
果物は植物という場所に有る。
植物は生物という場所に有る。

ヘンテコな話になってしまうが「私」と「甘い物」は「生物」という《場所》で合流する。

このように、有る《場所》を少しずつ大きくしていくととてつもなく大きな《場所》に全てが合流していく。

この世界は矛盾ごとあらゆる全てが統合されたひとつの世界なのである。西田哲学では《絶対矛盾的自己同一的世界》と言う。


鯉山


『宵山万華鏡』の世界、宵山世界では、この全ての有るものが統合された「とてつもなく大きな《場所》」が宵山なのではないかと思う。

宵山世界で宵山様はどこにいるのだろうか。

今までは「有」のことを述べてきた。
「有」があれば「無」も存在する。

いまこのように「有」について考えている私たちの意識が有る。しかし実際には物質が有るわけではない。この意識は「有」に対する《相対的無》である。

そしてそれすらも包み込む場所がある。全ての矛盾する有、意識、それらを内包する《絶対的無》。ここに神がいる。
西田哲学では神は限定されていない。人智を超越した大いなるものがある場所がこの《絶対的無》である。

宵山世界においては全てが統合された一番大きな場所が宵山である。

全ての物語は宵山の中に有る。
そしてみんな宵山のことを考えている。

宵山世界の全てを内包する《絶対的無》の場所。そこに宵山様はいるのではないかと思う。

「私たちって、宵山様はほかにもいるの?」
「みんなで一人、一人でみんな」
宵山様は微笑を浮かべた。「あなたもそう」

集英社文庫『宵山万華鏡』247頁


全てを内包している《絶対的無》にいる宵山様にとっては《個》は存在せず、さよならもないのである。

世界の中で私たちのような《個》、つまり個人はどのように存在するのだったろうか。

絶対的無から場所を限定していった先端に私たちのような《個》がある。代替え品のないただひとりだけの個人である。

宵山世界でも同様である。

「ついていったらあかん!」

集英社文庫『宵山万華鏡』251頁


「つれていくな」ではなく「ついていくな」と姉は言った。これは姉から妹への呼びかけなのだ。

私は汝が私に応答することによって汝を知り、汝は私が汝に応答することによって私を知るのである。

『西田幾多郎哲学論集Ⅰ 318頁』


姉が妹に呼びかけることで妹は個として存在するのではないだろうか。姉も妹が呼ぶので
姉という個として存在するのである。

全ては無の中にある。
その中で限定していった先端に呼びかけることによって個人はかけがえのないものに限定される。

妹は「無」に連れ去られようとしていたが姉によって「有」に呼び戻されたのだ。

姉妹は堅く手を握り合ったまま帰る。
手を握るということは個と個があるということだ。

彼女たちはかけがえのない存在なのだ。

弁慶山


他にも互いに呼びかけ合ったふたりがいる。

思わず「京ちゃん」と呟いていた。
相手が振り返って、くすくすと笑った。「ちいちゃん」と言った。

集英社文庫『宵山万華鏡』166頁

京子ちゃんは呼びかけに反応している。《個》が存在しない《絶対的無》に連れ去られきれてはいないんではないだろうか。世界は矛盾している。「京ちゃん」が呼びかけに応えて帰ってくる世界線もあるんじゃないだろうか。そうだったら嬉しい。



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