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親から子へ

ジビーフはいろんな縁を運んでくれる。僕がジビーフを扱うことがなければ、間違いなく知り合うことはなかっただろう人。狭い業界なので、名刺交換くらいはどこかでしていたかも知れない。でも、一緒に旅をしたり食事をしたり、お家に招かれるほどの関係はとてもじゃないが考えられない。ジビーフに感謝しかない。

父と子が一緒に働く。周りから見れば後継者がいてよろしいなぁ、と思うのだろうか。僕は修行の途中で父親に引き戻された経験がある。3年間だが父親と一緒に仕事をした。毎日一緒にいると、親子だからぶつかることもある。僕は長男なので、外にでている弟と比べて、窮屈さを感じていた。長男だからと我慢していたが、もしかしたら親には親の、弟には弟の我慢があったのかも知れない。

大将は、京都の奥座敷と言われる花瀬で生まれ育ち、美山荘の次男として10代から料理の道に入った。今年で72歳となる大将は、毎朝、大原で草を摘み、いまも厨房に立ち続ける。

2024年4月14日、京都は初夏のような汗ばむ日となった。この日、大将と女将さんは厨房ではなく、普段着のまま客席のカウンターに座られた。厨房を仕切るのは、長男の克之さん。そして若いスタッフたちがお客様をお出迎えした。ちなみに、克之さんは45歳、大将が美山荘を離れ、銀閣寺の近くで独立したのも45歳のときだった。

そろそろ克之さんに代を譲ったらどうですか?
体が調子悪いときもあるし、そうは思うんやけどお客さんの顔見ると、英気が漲るというか元気になるんですわ。まだまだやれると、、大将から3回くらいこの話を聞いた。

そりゃそうでしょう。実際元気なんですから。でも、いつまでも元気というわけにはいきません。人間はいつか終わるんですから。この日は、「引き継ぐ」ということをテーマに克之さんの料理を食べる会が昼夜開催されたのでした。

まずは昼の部。
ガラガラと扉を開けると、いつもとまったく違う空気感だった。手持ち無沙汰な大将は、我慢しきれず厨房に入りカウンター越しに一人一人にシャンパンを注ぎだす。空気が一瞬にして変わった。いつもの「なかひがし」になった。これでは意味がない。でも、凄い。

大将が口出し手出ししないように、夜の部まで連れ出した。いつかは代を譲らないといけない。いまがそのときなのか、もう少し先なのか、技術は継げても心は継げない。葛藤もあるでしょう。特に創業者は大変な思いをして今日に至るわけです。ときには体が悲鳴をあげることもあったでしょう。それでも指先が動く限り厨房に立ち続ける覚悟でやってるわけです。それが初代の心意気です。

松竹梅のコマーシャルで石原裕次郎さんと宇野重吉さんが撮影した場所にて。僕と同世代の方はご存知ですよね、「飲むことすなわち喜びさ」懐かしいでしょう。

夜の部は、大将も女将さんもお客さんです。つい、口を出す大将に、隣席の大國屋鰻兵衛の山岡さんが、「ひいちゃん、ええから黙っとき」と二度三度、、

ちなみに、草を料理して食べさせるんやから草喰と名付けたのが山岡さん。そして誕生したのが、「草喰 なかひがし」です。

食事の前に大将が話をした。
18歳のとき、小説家の立原正秋さんから美山荘に予約が入った。しかし、この日は兄がいない。弟しかありませんが、と告げるとそれでもいいと言う。

さて大変なことになった。一通りの料理を出し終え、ご挨拶に行くと、「今日の料理は君が作ったのか」と言われた。どれだけ怒られるのかとビクビクしていると、「おいしかったよ」と言って金一封をいただいた。

その時の嬉しさと怖さは、忘れようがありません。その後兄が亡くなって4年後、このまま美山荘に骨を埋めるのかなと考えていた時に、姉から「ひいちゃん独立したらどうや」と、言われ現在の地に店を構えることになったのです。

そんな環境のなかで育った長男、克之さんですから、導かれるように料理の世界へ。そして4月14日、いつかは代替わりする時がきます。なかなか踏ん切りがつかない大将の背中をみんなで押そうと、この日は克之さんが考えた料理をいただいたのでした。

光栄なことに、ジビーフ以外の肉(近江牛やあか牛など)を使っていただき、牛と草をお題に、この日限りの「にくひがし」が夜の部18時から始まりました。

いつもはセンターに大将ですが、この日は克之さん

最初のお膳がでて、これでいつもの「なかひがし」の料理は終わりです。と克之さん。

すべての料理の写真と感想を書いても良いのだが、うまくまとめられない。ただ思うのは、命や感謝という言葉を使う人はたくさんいるが、料理を食べてこそ感じることであって、この日の料理は、自然を食べてるようで、心まで満たされたのでした。

食事が終わり、大将にどうでしたか?とお聞きしたところ、「感無量」とだけ言ってその場を立ち去った。これですぐに代替わりということではなく、いつかその日が来る時のために、心の準備ができたのではないでしょうか。

話を最初に戻しますと、そもそもはジビーフがつないでくれた縁です。生産者の西川奈緒子さんから時々、忘れた頃に聞かれます。なぜ、近江牛だけで生計を立てられたものを、厄介なジビーフを放り出さずにやり続けているのかと。不思議なんだそうです。

理由もなければ考えたこともありませんが、ジビーフの販売は僕が全て任されています。僕は信頼だと受け取ってます。これはジビーフに限らずですが、売れなかったら僕のやり方が悪いだけで、おいしくないと言われれば僕の責任です。おいしいと言われれば、それは関わってくれてるみなさんのおかげだし、ジビーフと出会って、嫌なことがひとつもないのが答えかな。楽しいことばかり。強いて言うなら、僕の覚悟かな。

ありがとうございます!