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「不作為」も、ときに大切だなと思った件

世の中のありとあらゆることに対して「何かをしなかったこと」で賞賛されることは少ない。けれど「不作為(あえて何かしないこと)」も、大切なことだなと思った話。

大型連休中、とあるイベントに客として出かけてみた。事業者となってからというもの、イベントには出展することはあれど客の立場で参加するのはなかなか久しぶりだったので、多くの気づきがあった。陳列や接客、空間作りなど…

その中でも「声がけ」については特に注意しなければならないと思ったのだ。雨天で集客状況があまり良くない、スタッフの方が客よりも多いそんな状況だったのだが、スタッフさんの前のめりっぷりに、

正直なところ

「気持ちはめちゃくちゃ分かる、でも、もう少しじっくり見たいんだけどな。」と思ってしまったのだ。

出展料もかかっているだろう、やらなければならない他のこともあるだろう、そんな中わざわざイベントに出ているのだ。鼻息が荒くなるのも仕方ない。

かくいうわしも、イベント時は、鼻息で紙吹雪を舞わせるくらい造作もない、というくらい荒いはずなので、人のふり見て我がふりなおせ、である。武田信玄も「動かざること山の如し」といったではないか。

でも「何もしていないように見えることに耐える」ことって、実はめちゃくちゃ難しいことなのである。ほぼ100%「なぜ何もしないんだ!」という人が(もう一人の自分も含め)現れる。

色々な人の間に挟まれ、揉まれる立場になってみると、一方から批判されることを覚悟で「あえて動かない(不作為)」自治会の役員や、行政、政治家の方々など、とくにこういった属性の人たちの絶妙な作為と不作為により、社会は成り立っているとよく感じることも、ある。

たとえば、移住相談に乗っていただいたときに

「移住した人に対してウチは助成金は出していません。お客様扱いに慣れてほしくもないですし、起業もそんなに甘いもんじゃないです。大切なのはご自身の覚悟と、定住後の生活です。」といったようなことを伝えてもらったことがあり、それが実は現在の島暮らしに大きくつながっていたりする。

責任を負うべき範囲を明確にし「応援はするけれど、そこから先は自分の力でなんとかしてね」とした方が、かえって長期的に見ると良い結果を生み出すことがあるのだ。

子育て、教育などで例えると分かりやすいかもしれないが、こと政治や行政となると、自分たちは何でもかんでも「政治家がなんとか考えろ!」「行政が何かしろ!」と言っていないだろうかと顧みたい。

政治や行政の役割が、とくに大きくなりすぎているようにも思う昨今。

本来的には、隣近所の代表者のそのまた代表者の集まり、という性質にもかかわらず、1人の民として多くのことを望みすぎていないか。

自助・共助の力を蓄えていきたいと思う最近である。地域は、そこに暮らす人1人1人の営みによって作られる。誰かに作ってもらうものではない。自分でやらねばならぬのだ。

そんなことを思いつつ、「これは、あなたために、組織のために、あえてやりませんよ」をきちんとデザインできる事業者であり、人でありたいと改めて思った次第である。

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