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自分なりに寄付について考えてみた

寄付かー。寄付をするなら寄付金が一番楽だし無難だよなー。
とか安直に考えて、書いてみました。

寄付をするなら寄付金(義援金)が無難


日本でTwitterなどのSNSが普及してから大きな災害が起こるとよく目にするのが「物を送るよりお金を送ってほしい」とか「千羽鶴いらない」みたいな投稿です。

これは、モノを送ると受けた側は整理しないといけないし、そもそも置き場に困ったりするし、往々にしていらないゴミのようなものが送られてくる事が事例としてあげられます。

例) 送る側の自己満足でしかない千羽鶴、消費期限切れした食材、ボロ布のような古着等

それよりはお金のほうがそれぞれの被災地で必要なものを選択して仕入れることが出来るようになるから、被災地に対して何か寄付をするのならお金の方が役に立つし合理的だと言えます。

地獄への道は善意で舗装されている


被災地の避難所は往々にして物資の輸送に支障をきたしている場合が多々あります。また、バラバラに送られてくるので、大きさが均一ではなく、整理や仕分けに被災地での貴重な労力が割かれてしまうと聞いたこともあります。

そんな時に寄付側の都合(自己満足)で送りつけたゴミのようなもの(以下、ゴミ)が必要なものを押しのけて避難所に送られてくるのは迷惑以外の何物でもありません。

もちろん、被災者の事を十分に考え、情報を収集し、必要なものを送ることが出来る方もいらっしゃいます。
ですが、全ての義に厚い方々がその心意気を上手に伝えられるとは限りません。良かれと思った送ったものが、避難所では処分に困るゴミになったりします。

機械的にお金を寄付

何が本当に必要か、それは避難所にいる方や現場で復旧作業にあたっている専門家にしか分かりません。
今何が必要か、被災者の立場に立って考えられる人は思いやりのある素敵な方だと思います。
ですが思いやりの有無は「」の話であって、寄付とは「」に関することだと私は考えます。
ですので、私のような想像力の乏しいような人間は、被災者の事をうんうん唸って考えるよりも、機械的にお金だけ渡して必要なものを現場で判断してもらうのが無難で合理的ではないでしょうか。
思いやりがない人間だから何もしなくていい。ではなくて、「義によって助太刀致す」の精神で社会のために出来ることをする。義捐金って「義」の字が含まれていますしね。

人は一人で勝手に助かる

これは私の好きな「化物語」という西尾維新さんの著書にでてくるメッセージです。セリフとしては忍野メメというキャラクターが発する、

「助ける?そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ。お嬢ちゃん」
「助けない。力は貸すけど」

とかなのですが、概念として、助ける側がどれだけ施しても、助けられる側が助かったと認識しない限りは助かったことにはならない、助けられる側という状態から抜け出すことはできない。という事だと私は受け取っています。

急に話題が変わってしまいましたが、被災者の方が日常を取り戻すための手助けという視点で考えることも必要と思い、上記の概念を持ってきました。

寄付金が被災地での必要なものの購入や生活インフラの復旧事業に使われることによって、お金が回り、被災地の経済復旧に寄与します。
お金が回ると同時に仕事も増えていけば、完全とは言えないまでも日常に戻れる方が増えていきます。
自分の力で生活できる状態、つまり助かったと自認できる状態に寄せていける人も増やせます。
このような事は、ボロ布や千羽鶴等のゴミをいくら送ってもできません。焼却炉の稼働率が上がるだけです。

被災地への寄付は現時点の物資の不足に対応する以外にも、出来るだけ早く日常への復旧を手助けする。というところまでを考えると、独りよがりの物による寄付よりもお金による寄付の方が融通も効き、より効果的なのではないでしょうか?

同情するなら金をくれ!

昔流行ったドラマでそんな名台詞がありましたね。

まとめ

・被災地への寄付を考えるなら物ではなくお金にしよう。
・寄付は「義」であり、最も合理的な寄付は「お金」。
・「今を凌ぐ」から「日常への復旧」まで考えると「お金」が一番。

以上です。駄文失礼しました。

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