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読んだそばから忘れる

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毒にも薬にもならない読書の記録。
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#読書感想文

自分の身体を取り戻すための長い旅:『エトセトラ VOL.3 特集:私の私による私のための身体』

産婦人科の内診台。あれはぜひ男女問わず乗ってみてほしいと思う。特別な用などなくていい。妊婦を疑似体験できるジャケットのように「産婦人科内診体験」でもなんでもいい。結構、びっくりするんじゃないだろうか。 椅子かベッドかは設備によって異なるだろうけど、基本的には「じゃあ、下、全部脱いでくださいね」と言われてヨッコラショと座る(あるいは寝転がる)。そして左右に足を掛ける台があってそこにそれぞれの足を乗せる。そして、下半身を隠すように仕切りのカーテンがシャッと引かれて「さらば、私の

「当たり前」にあったそのコミュニケーションについて考える:久山葉子『スウェーデンの保育園に待機児童はいない』

一応もう大人なので、いちいち恨み言を言ったりはしないが(もちろんたまに言いたくなる時もある)、子供の頃に大人から言われたことを未だに心の中で引きずっていたりする。そして思い返してみるとそれは、大人にとっては「褒めていた」つもりでも、子供サイドからしたら「余計なお世話」だったりすることもある。 久しぶりにあった親の友人に「痩せたねー!全然違う!」と言われたことにも、「○○さん(親)に似てるね!そっくり!」と言われることにも、正直ありがたみや喜びを感じることがほとんどなかった。

わたしの自由の街:おおがきなこ『今日のてんちょと。』

下北沢が好きだ。 何がとかどこがとか、というよりも街として好きだ。今は少し離れたところに住んでいて頻繁には行けなくなってしまったけれど、1人暮らしの頃は「下北沢から近い」ことを条件にアパートを選んでいたくらい、好きだった。 よく通っていた頃の下北沢は、今みたいに駅が新しくなる前で、駅前ももっとごちゃごちゃとしていて、踏切はいつまでも開かなくて、ヴィレヴァンはもっと本が目立つ場所に配置されていた。とはいえあとは今とそんなに変わらない感じで、高い建物が少なくて、いろんな店があ

食べることと感情と言葉と、人生を救う家庭科のこと:最果タヒ『もぐ∞(もぐのむげんだいじょう)』

おいしそう。おいしい。おいしかった。うまそう。うまい。うまかった。 お、と思う食べものに出会う度、私の手の中にある言葉たちは途端に貧弱になる。「おいしい」と「うまい」の未来現在過去形だけで済んでしまうなんて、食欲や味覚を前にしてなんて言葉は脆弱なんだろう。 私が誰かにその食べものの魅力を伝えなければならない立場であったならもっとボキャブラリーを鍛えたのかもしれないけれど、そうじゃない。食べることは私にとって贅沢なまでに孤独を堪能できる行為だ。 だから、社会的にはどうだか

映画の話はこんなふうに:井上荒野・江國香織『あの映画みた?』

先日、米アカデミー賞が発表され、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』が作品賞をはじめ4部門を受賞した。『パラサイト』はなんだかんだとまだ観てないくせに、ポン・ジュノのスピーチをテレビで見ながら、一緒になって感極まってしまった。『ジョーカー』だって観てないし『ジュディ 虹の彼方に』だって日本公開はこれからなのに、ホアキン・フェニックスにもレネー・ゼルヴィガーにもぐっときてしまった。ここまできたらもうただの感動屋かもしれない。 初めて映画が好きだと自覚したのはいつだっただ

私と笑いと阿佐ヶ谷姉妹:阿佐ヶ谷姉妹『阿佐ヶ谷姉妹の のほほんふたり暮らし』

ファンというほどではないが、阿佐ヶ谷姉妹が密かに好きだ。追いかけている訳ではないけれど、テレビに出ているとなんとなくほっこりしてつい見てしまう。 ついでに言うと、中学生くらいの頃、お笑い芸人になりたいと思ったことがある。 当時、NHKでやっていた「爆笑オンエアバトル」が大好きで、同じようにハマっていた友人と面白かったネタをマネしてはげらげら笑ったり、果ては「お笑いすごい、ってかお笑い芸人すごくね?なりたい、なりたいかも!」なんていう思いが頭をかすめたりした。 ただ、私は

心がきしむ音を聞いた:ジェーン・スー『生きるとか死ぬとか父親とか』

痛みを伴わずに、家族の話をすることなどできないと思う。 私は結婚や出産によって抑圧され続けた母の苦悩を目の当たりにしたし、そのストレスがまっすぐに飛んでくることもしょっちゅうだった。田舎の農家の次男というなんとも言いがたいポジション出身の父親も、複雑で気むずかしい人間で私には対応しきれない代物だった。おかげさまで今は年に数回コンタクトを取るだけという、ほどよい疎遠具合になっている。 そういう家庭で育ってしまうとつい、仲良し親子や仲良し家族に悲しみがあるなんてことは考えられ

そうやって今日もなんとか生きている:雨宮まみ『まじめに生きるって損ですか?』

「まじめに生きるって損ですか?」 このタイトルを見て、そう誰かに聞きたくなったことのある人は結構いるんじゃないか、と思った。答えてくれる人がいるかは別として、少なくとも私はそうだ。そしてその度に、出来ることなら「否!まじめで結構!そのままでよし!」と全力で肯定してくれないかな、と割と強めに願ったりしていた。 自分なりに与えられた環境の中で精一杯やっているつもりでも、この世はそんなに甘くない。努力は実るものばかりではないし、生まれた時点である程度の経済力が決まっていたりする

会話の楽しみを読む:雨宮まみ・岸政彦『コーヒーと一冊⑧ 愛と欲望の雑談』

私はこんなふうにnoteやTwitterをやったりしているが、誰かとコミュニケーションをとるのなら、絶対的に直接会って話す方が好きだ。 語彙力にも文法にも自信がないし、表情や会話のテンポなしで気持ちを伝えられる気がしないから、何かを話したいときはいつだって会いたい。 だから、SNSなんかでケンカをしている人がいると「ガッツあんなー」と遠巻きに感心してしまう。しかも面識のない人が相手なんてよほど元気がないとできない所行だと思っている。 この本は、ライターの雨宮まみと社会学

あの頃の私をアップデートする:『エトセトラVOL.2』(特集:We LOVE 田嶋陽子!)

実のところ、この特集を読むまで私にとってのフェミニストは上野千鶴子だけだった。論理的で時に挑発的な文章はとても魅力的だったし、20代前半の頃に『発情装置』を読んだことは強烈な体験として今でも心に残っている。 それに対して田嶋陽子はといえば、正直フェミニストというよりタレントだと思っていた。80年代生まれの私の家でも、やはり毎週TVタックルが流れていたし、私が知っている田嶋陽子は、その中で口論する姿だけだった。 だから今回の特集名が最初に発表されたとき、本当は少し暗い気持ち

あなたがロマンを望んだとしても:はらだ有彩『日本のヤバい女の子』

「なんか変わったね」と言われたことがある。 学生時代の恋人と7~8年ぶりに食事をしたときのことだ。 「むかしはなんかもっとこう…」少し残念そうに彼が続けた言葉はもうよく覚えていないけれど、というか聞く気にもならなくて頭に入ってこなかったのだけれど、どうやら私をもっと無垢で純粋な人間だと思っていたようだ。 この人は一体何を言っているのだろう。何を嘆いているのだろう。 それはきっと「私が変わった」ことではない。おそらく「私が思い描いていた人間と違った」ことだ。 ニコニコ

山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』

◆山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』(誠文堂新光社、2019年) 山崎ナオコーラが好きだ。作品などの略歴にある「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」という目標がもう魅力的だし、彼女の書く文章は静かだけど強い、そう感じている。小説なら『昼田とハッコウ』、エッセイなら『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』が好きだ。特に『母ではなくて、親になる』は「だってそういうものだから」というある種の呪いを解いてくれる良書だと個人的には思っている。私かお金持ちだったら配配

カレー沢薫『女って何だ?』

最後まで読もう。これは希望の書だ。◆カレー沢薫『女って何だ?』(キノブックス、2018年) 「希望の書」とは我ながら大きく出たものだ。安易に「希望」だとか言っちゃって、と思うかも知れないが、読んでみて「希望はここにあったか」と思ってしまったのは事実なので今回ばかりは多めにみてほしい。ちなみに今後も使う可能性は大いにあるのでその度に許しを乞うつもりである。そしてそれまでに語彙が増えることを願う。 さて、現代のナイチンゲール(すでに誰か言っていたらすみません)ことカレー沢薫女