二次創作での愛の形への自己見解

 こんにちは、酒蔵といいます。

 ツイッターとかで別名で二次創作をしていたりします。その中で、わたしは「愛の形にもいろいろあるのに、性愛がその行き着くところみたいなものが多いのはどうしてだろう」と思っていました。

 元々、創作はともかくとして、現実における性嫌悪の強い人間であるということもあるのだと思います。性嫌悪があることに理由はわかりません。気付いたらそうなっていました。

 話を戻しますと、私は二次創作をする前にそもそもオタクなので、他の方の二次創作も色々と拝見しています。その上で、最終的に性行為に及ぶタイプのものが多いなとおもいました。

 それが悪いとか、そういうことではなくて、単純にどうしてだろうと思ったのです。性愛も愛の形の一つですし、生物としてそこに行き着くことは間違っていないと思います。

 むしろ逆なのです。

 どうして私は性愛が愛の行き着くところであることに、これほど違和感を抱くのでしょうか。

 今回のnoteはそのことについての自己分析です。

 性嫌悪があるとはいえ、創作で性描写のある作品を読むことはありました。ただ、自分で創作する場合、どうしても「どうして私は今性描写を書いているのだろう」と思ってしまい、結局全て没にしてきました。元々、性描写自体は「とりあえずいれとくか」くらいのノリで構成に組み込んでおり、必要なものではなかったということもあります。

 この時の「どうして今性描写を書いているのだろう」という感情が原稿をしている上での倦怠感のようなものなら全く問題はないのですが、この時から「なんで性愛で締めようとしてるんだろう」という疑問がありました。

 そして今回きちんと考えようと思ったのは、それがわたしだけではないと知ったからです。私のツイッターアカウントのタイムラインで「愛の形にも色々あるのにどうして性愛と直結してるのが多いんだろう」という旨のツイートをお見かけしたのです。

 ツイート主の方の情報は伏せさせていただきますが、とにかく私はその言葉で「私だけじゃなかったのか」と感じたのです。

 この方が、どういう考えをもってこのような発言をされたのかは存じ上げませんが、とにかく言いようのない心強さを感じたのは事実です。だからわたしはこの考えをこうして発信してみようと思ったのです。

 まず、一つお断りしておきたいのは、私が創作上の性行為に対して違和感を抱いているのは、嫌悪感からではありません。現実世界での性嫌悪が私のこの違和感に影響を及ぼしてはいるのかもしれませんが、少なくとも私は創作における性描写に対して嫌悪感があるわけではないことをここに記しておきます。

 その上で、どうして私が性描写に違和感を持っているかについて述べさせていただきます。

 まず、最も大きく感じたことは前述にもあるように、性行為自体が愛の行き着くところであるように描かれていることがあるということです。

 これは私個人の考えなのですが、性描写が創作上そのように扱われることはかなり多いように思われました。そして性描写のある作品はかなり評価を得ているものが多いと感じました。前提として、性描写を扱っている創作者様方の技量が高いということもあるのだと思います。

 けれど、同じように素晴らしいと思った作品よりも、性描写のある作品の方が人気が高いと作品をみていて思うこともありました。私はBLもGLもHLも読むのですが、この傾向はどこでもあまりかわらないようにみえました。

 では、それはなぜなのかと考えてみました。

 これは一個人の推測に過ぎないのですが、性愛というのは非常にわかりやすい愛の形だからではないでしょうか。

 もちろん、性行為自体は愛がなくともできますが、愛の伴った性行為というのは、本当にわかりやすい愛の具現化だと思います。俗っぽい言い方になりますが「推しCPがわかりやすくイチャついている」のです。オタクにとっては何よりわかりやすい栄養分です。言ってしまえばステーキや焼き肉のようなものかもしれません。だからこそ広く受け入れられるのだと思います。

 では、なぜわたしはその「ステーキや焼き肉」に違和感を覚えるのでしょうか。

 この答えは「ステーキや焼き肉だから」なのだと思いました。

 少し噛み砕いて説明します。

 性行為というものは、身も蓋もない言い方をすれば本能的な生殖行為です。つまり、なにかしらの不全がないかぎり、誰でもできるのです。もちろん精神面においては違うのでしょうが、性行為をその行為のみで捉えるならそうであると思うのです。

 つまり、性行為は誰にでもできることなのです。

 逆にいうと、誰にでもできるから、わかりやすい愛の形なのです。だからこそ性愛は「ステーキや焼き肉」なのです。

 そして逆にわたしは「誰にでもできる、わかりやすい愛の形」が推しの愛の形であることに違和感を抱くのだと思います。

 推し、または推しCPが性行為をする。それは確かに愛の形の一つです。けれど、私の推しはそんなにわかりやすい最終地点に落ち着くのだろうかと考えてしまうのです。

 愛の形はいろいろあるのです。例えばそれが恋でなくとも愛ではあることは多々あります。友人や身内に対して抱いているものだって愛です。恋であっても性愛の絡まない愛もあります。スーパーで好きな相手の好きな野菜を少し多く買ってしまうような行為だって紛れもなく愛だと思います。そういう愛が終着点であることも、あると思います。わかりやすくはないと思いますが。

 そして私はそういう愛を見出す推しが好きなのです。これは作品問わずそうです。だからこそ、私は性愛が愛の形の終着点のように扱われることに若干の違和感を覚えるのだとおもいました。

 明け透けにいってしまえば、誰でもできることを推しの愛として落とし込むことに抵抗がある、ということです。これは私がひねくれているのでそう思うだけなのかもしれませんし、私のエゴです。

 推しも生物である以上、本能に基づいて性行為をするかもしれません。いや、するのでしょう。けれど、それが推しの愛の頂上でなくてもいいし、私においては性行為が愛の頂上であってほしくはないのです。わがままなのかもしれませんけれども。

 今回のnoteは、私自身の考えを整理するために書いたものです。

 これを見た人に「だから性描写をするな」という意見をしているわけではないし、そんなこと思ってもいません。

 ただ、性描写になんの躊躇いもなく好きだと言えるわけではないと思っていても、それを公共の場で言うのは憚られるのではないかとも思うのです。

 わたしもそうです。なぜなら性描写はやはり非常に需要の高いもので、それを好きな人がたくさんいるからです。

 なので、そういう方達に自分だけじゃないのだと届いけばよいなと思ったのです。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。​

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