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「わたしのための物語」が二次創作でしか描けない

去年、こんな記事を書いた。

二次創作って楽しいけどなんだか後ろめたい、自分の欲望を思いっきり表現するなら一次創作するしかないのではないか?

…というような悩みの吐露だったと思うのだが、結局今年も二次創作を書いている。なんなら個人誌まで出した。初めてエアブーにも出た。
「二次創作で描けるか?」とはどの口が!?感満載である。恥ずかしい。

実はアカウントを変えたら、すべて解決してしまったのだ。
少しは交流していたのを完全なる壁打ちにして、感想は送るのも受け取るのも匿名サービスだけにした。どうしても書きたいネタがあるときだけお話を作るようにしたので、お題は探さないしリクエストも受け付けない。「腐女子」という名乗りもやめた。

早い話、SNSで二次創作をやっていて、「自分の書きたいように書く」がコントロールできなくなっていたのがしんどかった。公式の情報や季節のイベントに合わせて投稿をしているうちに、推したちのどこが好きなのかわからなくなったりするのはSNSを利用するオタクあるあるだと思う。しかも時間をかけて一作書いたところで、消費されるのは一瞬だ。これは体感的に絵も文章も変わらない気がする。

たぶんいいねの数が何百倍になったとしても、私の場合、虚しいんじゃないだろうか。一番向き合っているのは自分なのだから、やっぱり誰より自分が好きになれる話を書かないと意味がない。もちろん、読むに耐えうる文章のクオリティはある程度追求したいけれど、これは伸びる、みたいな打算をやめることにした(もともとそんなに伸びないが)。実際ほとんど読まれなかった話でも、じっくりコトコト丁寧に作り上げたので、だいぶ満足している。

創作したいなら一次のほうが、とはいまでも思う。
しかし二次創作に向き合いながら気づいてしまった。私はたぶん、一次創作では自分の欲望をうまく表現できない。推しという架空の人物を前にして、彼らに共感してやっと、いつも押し殺している感情が現れてくる。推しに仮託して物語を生み出すことだけが、精一杯の主張なのだ。大事な子をお借りしてしまい原作者には申し訳ないな…と思うけれど、それが少しでも誰かと共有できる「萌え」ならば、ひっそり存在させてほしい。彼らを自分の手で救うことが、「わたしのための物語」になるからだ。


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