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おやすみなさい。私は、

自宅のポストが小さくて、ポスト投函の荷物がほとんど入らない。普通の宅配便だったらロッカーに届けてもらうとして、それ以外の通販は親の住所へ届くようにしている。実家といっても近いので。

今週はネコポス配達の同人誌を受け取ってもらった。読書好きの母は中身が本だとわかると、「私にも読める本なの?」と散歩前の犬みたいなテンションでワクワクしている(母とはよく本をシェアする)が、同人誌はジャンル外らしく無視してくれる。助かります。ちょっとパラパラしたいって言われても、好みが出すぎで恥ずかしいから……。

少し前には、青森の近代文学館に注文した『有明淑の日記』が届いた。
私は太宰治の「女生徒」が好きだ。文学少女のロマンティックな空想と、周囲への冷静な視線。自己愛と自己嫌悪を行ったり来たりする自意識過剰な感じ。この話に共感できなくなったら大人になったってことね、と思いつつ10代から読んでいたが、いまだにわかる。泣きながら読んだ日も一度ではなくて、太宰治に感謝してもしきれない……と思っていた。が、実はである。最近新聞記事で「この小説は元になった日記のほぼ丸写しですよ!」という話を読んだのだ。エッじゃあ私が感謝してたのはその日記の人なんじゃないのか。小説とどう違うんだろう、とさっそく取り寄せた次第だった。
小説の中で特に共感するのは二匹の犬の話だ。一方は足が不自由で、かわいそうだから名前は「カァ」。ひどい。カァはかわいそうだから、元気で綺麗なほうの犬だけかわいがる。ひどい。でも、そうだよねと思う。地位のある父を亡くし、母と二人で不安定になりつつある暮らし。彼女は弱いものに手を差し伸べるほどの心の余裕がなくて、直視できないんじゃないか。けれど夜が深くなると少しだけ気持ちが落ち着いて、明日はカァにも優しくしてあげると誓い、眠りにつく。
結局、犬の話は「有明淑の日記」にすぐ出てきた(名前はカァではなく「カー」だった)。あれは実在した19歳の少女の言葉だったのだ。数ヶ月の出来事を一日分にまとめて(ほんとにほとんど丸写しで)小説にした太宰治はやっぱり天才だが、好きだなぁと思った言葉はつまり有明淑さんのものだった。ひとの日記を読むのはどうもドキドキしてしまって、まだあまり読み進めていない。

さて、きょう同人誌を引き取りに親の家へ行ったら、母が録画していたドラマ『恋せぬふたり』の最終回を見せてくれた。
高橋一生さんが好きで見始めたらしく、そういえば放映中「あんたもこんな感じなのかなって思った」と言っていた。異性と付き合っても全然長続きしないのを、さすがに母は知っている。私は恋愛が必要ない人間のようです、という話はなんとなくしていたので、なんかしっくりきたらしい。
最終回だけ見てもよくわからなかったが、こうしてもっともっとドラマで取り上げられたりして、いろんな人がいるのだと可視化されていったらいいな。Aro/Aceに限らずとも、そもそも誰の人生でも恋愛がど真ん中にあるものだろうか。社会の仕組みでそうせざるを得ないだけではと思ってしまう。

ちなみに自分の恋愛指向・性的指向に関しては、はっきりこうと正直いえない。少なくとも異性愛者ではない(性自認もたぶんシスではない)。説明する機会もないので、突き詰めるのをやめている。
なんだかマジョリティから外れていてモヤモヤして困っている人は、こういったサイトを利用すると少し自分への理解が深まるかもしれない。

いろいろなことがわからないまま、大人になってしまったと思う。身近な人にも、配偶者も子もいない……みたいな自虐を披露してしまうことはある。成熟していない人間だと思われるのがいやで、けれど同時に、そういう道を選べていたら成熟できたかというと違うんだろう。
相変わらず「女生徒」のように、明日こそ優しくなりたいと願って眠る。

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