見出し画像

ささやかな日常を幸福だと感じられることさえ、

大学生になって間もないころ、電車でおばあさんに席を譲られたことが2回ある。普通逆だと思う(もちろん譲った機会のほうが多い)。至って健康な日にただ立っていただけなのだが、まだ化粧をしていなかった私はたぶん血色が悪かった。その後チークとコンシーラーの使い方を覚え、これで見知らぬ人に心配をかけずに済むな、と少しホッとした。

あれから10年以上経って、いまは古い住宅街に住んでいる。近所には年配の人が多いのだけれど、顔を合わせるたびに「体調は大丈夫? 一人で大変ね」と尋ねてくれる。化粧をしていてもやっぱり顔色が悪いのかもしれない。買い物の帰り道、車を運転してきた知らないおばあさんが窓を開け、「乗ってく?」と声を掛けてきたこともあった。どなたですか。覚えてないけど近所の人だったのか、人違いかな。おばあさんにナンパされたのは初めてだった(ナンパではない)。
私が一番若そうだから力になりたいな、と思っているのに、むしろこちらが見守られている。

気軽に遠出はできない世の中だから、ほぼ職場と家の往復だけの毎日。旅行も、遠方の友人に会うことも躊躇われてたまに寂しくはなるが、いまの私にはこのくらいで十分だ。街を歩いておばあさんに心配されつつ、おじいさんに道を聞かれつつ、そう思う。人と親密であろうとすると、楽しい気持ちと同じくらい疲れてしまう性分だから、ゆるやかな距離で親切を交わすくらいがいい。消費を煽る世の中が減速したのも気が楽だった。一人で家に帰っても、作った料理がおいしければ幸せだし、ゲームや小説で素敵な物語に出会えれば楽しい。

このパンデミックで命の危険にさらされる人たち、生計を失う人たち、過酷な労働下に置かれる人たちが大勢いるのもわかっているので、「コロナのおかげ」などとは決して思えない。多少のストレスや不安があっても、私がいまを満足だと思えるのは、単に運がいいだけ(それだっておそらく、いまだけだ。行政が自助を求める国で、単身歳をとっていくのは貧困と隣り合わせだから)。
人が守られないこの国の政治に憤っている。より弱い人に矛先を向ける社会を卑劣だと思う。怒りを抱いていても、お年寄りにも心配されるひ弱な人間に、大したことはできないけれど。もっと強い人間になりたかった。心ではなくて、権力や経済力の強さの話である。

「気持ちの問題」ではどうにもならない私と私でない誰かのしんどさを常に感じながら、好きなものを小さな部屋にぎゅっと集めて、なんとか暮らしている。
この先どうなるだろうと不安に思いながら、それでも知らない誰かに少し親切にできたらいいと思いながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?