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島嫁の憂鬱【in AKIKO's case】vol.2

 結婚式の喧騒が過ぎ去ったとき、亜紀子は胸のうちに何か釈然としないものがあることに気が付いた。それは心のしこりと言えばしこりと思えなくもないのだけれど、ちょっと疲れ過ぎて余計なことを考えてしまっているのだろうと亜紀子は自分を納得させた。確かに亜紀子はひどく疲れていた。結婚式の招待客が新郎側だけで二百人以上にもなり挨拶を交わすだけでもひどく慌しかったし、日頃はほとんど付き合いがなく縁戚関係があるのか無いのか定かでない『遠い親戚』までを結婚披露宴に集めた新郎側には如何なる思惑があったのかと少々訝しくも感じていた。でも、ただそれだけだ。別に釈然としないわけでも納得が出来ないわけでもない。ただたとえ些末とは言え、物事の進め方や段取りの付け方がいろいろ本土のそれとは異なっていて少々ストレスを覚えただけなのだ。そんなことはこれから始まる二人の薔薇色の新婚生活にはなんにも関係ないのだ。そうだ。そうに違いない、などと亜紀子は思い込むことに成功したし、その成功は結婚式後の二ヶ月間に及んで亜紀子をひと時の幸福感にも浸らせてくれた。ところが新婚生活三ヶ月目にその時が突如やって来た。去来したそれは自分は何か決定的なミスを犯してしまったのではないかと言う真っ黒な疑念。

 結婚から三ヶ月目を迎えた穏やかな春の日。それまで仕事を終えるとまっすぐに家へと帰って来ていた夫の一郎が連絡のひとつも寄越さぬまま深夜になっても帰って来なかった。亜紀子は最初、きっと仕事で遅くなっているのだろうと思ったのだが、深夜零時を回り、午前一時を回ったあたりで連絡も無しに帰ってこない理由が職務ではないことに遂に気付いて少なからず焦燥感に駆られたのである。駆られたついでに一郎の母親に電話を掛けて何か事情を知るまいか尋ねようとも思ったが、いくら夫の親とは言えども、さすがに深夜の他人宅へ詮索捜索の類いで電話をかけるのは事と次第が大きくなり過ぎるのではあるまいかと寸でのところで思いとどまった。そして、夫が何か不慮の事故や暴力事件などに巻き込まれたりしていませんようにと亜紀子はひたすら祈るような気持ちで一郎の帰宅を待ち続けたのである。

 午前二時を回ったところで亜紀子はちょっと泣いた。そして午前三時半。まともに歩けぬほどに泥酔した夫が帰ってきたのである。亜紀子は安堵するよりも先にその泥酔の様子に少なからず驚いた。夫はまるでテレビドラマに出てくる半グレ風情の若者が演じる酔っ払いみたいに呂律も回らず立ち上がることも出来ず、頭の狂った人みたいに意味不明のことを口走りながらズボンのベルトをはずして陰部のあたりをぼりぼりとかきむしったかと思うと、見えない誰かに向かって罵声のような声を発したりした。何度も何度も。


 このような一郎の破廉恥で下品な姿は初めて見るわけであり、それは言うまでもなく醜態と呼ぶにふさわしいものであり、すっかり動揺した亜紀子は「醜態と言うより醜悪?最悪?誰こいつ?」などと口走り、結婚したことを後悔しそうにさえなったのだ。それでも亜紀子も大人である。ややして気を取り直し、玄関でそのまま寝落ちしかける一郎の肩を起こしてコップに注いだ冷水を口元に運んで飲ませようともしたし、泥酔に至ったことの次第を問い正してもみたのであるが、勿論それはすべて無駄な行為と言うべきものだった。


 翌朝なかなか起きてこない夫の様子に再び動揺を覚えるも昼前になってやっと目を覚ました夫のどんよりと曇った表情を見るに亜紀子は努めて抑えていた怒りが我慢しきれなくなって昨夜のあらましを問い詰めた。しかし夫は悪びれるでもなく、島の男同士の付き合いに酒宴は欠かせぬものだ。いちいち言わずともそれくらいは常識ではないか。オマエも島の嫁となったからにはそのぐらいは察しが付かなくてどうすると逆に説教される始末であり、右も左もわからぬ土地へ嫁いで来た女性の立場として覚える心配や不安憤りなどの一切をはねのけるかのような高飛車で強引な態度に終始する夫のあまりに一方的な論説に新妻亜紀子は絶望さえしそうになったのであるが、肝心のその怒りをぶつけられる先もなくて、昼過ぎにのろのろと作業服に着替えて、実父より譲られた5ヘクタールのサトウキビ畑へと向かう夫の背中を無言で見送るしかなかった。


 その件で亜紀子はいろいろと悩んだが、それでも自分の母に相談するのだけは思いとどまった。遠く離れた母に心配を掛けるのはよくない事であると思ったからだ。それで亜紀子は一郎の母親へ電話をしてみた。昨夜このようなことがあったと報告をし、今朝の一郎の様子が少々心配であると訴えてみたのだ。
 それで一郎の母がどうしたかと言えば、亜紀子の心配を笑い飛ばしただけだったのである。そのような心配など心配に足るものではない。夫が酔っ払って帰ってきたくらいで、ちょっと泥酔したくらいで騒いでいたら島の嫁は務まらないだろう。自分たちも同じ思いをして来たんだよ。私たちが若い頃はみんなそうだった。」と軽く一笑に付されてしまったのだ。それで亜紀子は愕然となった。

 亜紀子に味方する者はそれからも誰一人現れなくて、一郎の父親も、一郎の兄弟も、兄弟の嫁たちも、そして一郎側の親類縁者一族郎党のほとんどが憮然となっている亜紀子を諌めるべく画策したり奔走したり裏で手を回したりするに及んで亜紀子は遂に決定的違和感を覚えるに至った。しかし亜紀子はこの時まだ違和感の正体に気付いてはいなかった。(つづく)

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