堺屋太一に関する話し 有坂先生に教わった頃

『【大阪城築城400年】あれはけしからん!』
関西大学二部の天六学舎の小教室に 有坂隆道教授の大声が鳴りひびいた
1984年頃の出来事である 二部で学生も少なく 教室には10名もいないので 有坂先生の講義をかぶりつきで聴く事ができた
わたしは この時間が人生において 至福のひとときだったと 今でも思っている
講義はだいたいが 有坂先生のボヤキ漫才(ひとりだけど)のような感じで しかし だんだんとテンションが上がってくるので 最後はドヤシ漫才になる
時折 教室の前を通る学生が その剣幕に驚いた顔をして歩いていく
『あの教室の学生 いつも怒鳴られてるで』
そんな事を思っているかも知れないが 教室にいる学生の顔を見てみろや みんなニヤついてるやろ 
わたしは 日本史を専攻していた
有坂先生は 大阪の町人学者 山片蟠桃の研究者で 『夢の代』の注釈を書いておられる
また 日本洋学史を専門にしておられるのだが 古代史にも精通していて 高松塚古墳の発掘で壁画が発見されたのに伴い 諸説紛々巻き起こり 怪説 陰謀論まがいの説も飛び出したが それを一刀両断に批判を加えたのが 『高松塚論批判』共著 という本にまとめられている
むちゃくちゃ面白い
この頃 大阪城築城400年 というイベントが 大阪城の周りで行われた
『堺屋太一っちゅう 通産省出身のしょうもない官僚が 企画しやったんやけどな』
と 有坂先生のボヤキがはじまった
堺屋太一というと この間 亡くなった 最近は大阪維新の会と結託して 道頓堀川プール 2025年万博と ことごとく転けそうになっているビッグ・イベントの言いだしっぺである
1970大阪万博をプロデュースした事で 株を上げ 色々なビッグ・イベントに いっちょかみしてきたんだろう
まだ 大阪万博の余韻は 特に関西人には強く残っている
その堺屋太一が企画した【大阪城築城400年】のどこが けしからんのだろうか?
当時の記憶を元に 有坂先生の話っぷりを再現してみよう なんせ昔の事なので 盛ってる部分や 思い違いもあるかも知れないが 趣旨は伝わるだろう
『大阪城っちゅうのはな みんな知ってるように 太閤さん(豊臣秀吉)が造らはったんやけどな その下には石山本願寺 さらに下には難波宮の遺構が埋まってるねん そんでな 豊臣家が徳川に滅ぼされた跡に 徳川は まさに徳川の威信をかけて 各地の大名に命じて 豊臣の城のあったとこの上から ものすごい高さに盛土して 天守閣を造り上げたんや 天守閣は 昭和六年に建て替えたもんなんやけどな しかし 今ある大阪城は 豊臣の城やのうて 徳川の城 つまり いわば かたきの城や そのかたきの城で築城400年やて ちゃんちゃらおかしいわ』
この頃になると テンションが上がって 声もデカくなっている ところが 次の瞬間に突然声を潜めて 
『そうなんやけどな 今度 そこで 山片蟠桃展を まあ一部屋ぐらいの小さい場所なんやけどな やることになったんや そんなわけで 時間ある人 見に来てや』
そういうと ペロッと舌を出して笑った
そんな ちゃっかりしたところがかわいい有坂先生だったが 権力が嫌いで 特に東大が嫌いだった
気持ちはわかる
有坂先生の出身大学は 京都帝大なのである
また 岩波書店についても
『岩波の本社に行ったけど 慇懃無礼や』
と手厳しい 
山片蟠桃の夢の代は 岩波から出てるんですけど
そんなちゃっかりしたところがありながら 舌鋒鋭く批判するところは批判する そんな先生だった
まあそんなわけで その頃から 堺屋太一には 胡散臭さを感じていたわけだ


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