「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」を読み直してみた。

バトラーの「構築主義」の理論を、どこかで見たなと考えたところ、以前ネットで話題になった、「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」に掲載された千田有紀氏の論文「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」で触れられていたことを思い出した。

「女の境界線を引きなおす」を読んだ当初「机上の空論では」と思ったが、構築主義の観点から、その先の話をしていたと気付いた。当時は構築主義の存在そのものも、こういう論がジェンダーの研究の中である一定の前提になっていると知らなかった。

では、その理論の存在を知った今読んだらどういう感想を持つのだろう、と思って、もう一度細かく読んでみた。
結論としては(内容も賛成できないが)、内容以前に論の組み立て方に難があると感じた。

「何故、書き手の意図がうまく伝わらず(書き手が言う)『誤読』されたのか。原因はどこにあるのか」を、まずは考えた。

◆前段で二つの問題提起がなされ、主従がわからないまま、本題に入る。

この文章の前段は、「ターフ」という名称の定義から話が始まる。

「ターフ」は、ヴィヴ・スミスが2008年に

「私(ヴィヴ・スミス)たちとは違い(略)トランス女性を姉妹だとは思いたがらないフェミニストたちを叙述するための簡略的な表記」

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

として使いだした。

後に論文内で「フェミニズムの反省の言葉として誕生した言葉」「ラディカルフェミニズムと関係ないと思われる、トランス排他的な視点を持つひとを単に言及するためにまでひろがってしまった」と書いているので、本来は「ラディカルフェミニズムの中でトランス排他的な視点を持つひとを、フェミニズム内で自省的に指す言葉が、単にトランス排他的な視点を持つ人を指す言葉として使われてしまっている」ことを問題にしている、と理解した。

(1)フェミニストである。
(2)トランス排他的である
という二つの条件が重なった人が「ターフ」なのに、(2)の条件のみの人に今は使われてしまっている、という指摘だ。

だが、そもそも発生の段階の言葉の意味である、「トランス排外主義的ラディカルフェミニスト」は「いい意味」ではない。
「いい意味、フラットな意味の語が悪い意味として広まっている」なら「危惧する」のもわかるが、元々が「トランス排外主義的ラディカルフェミニスト」を指す語が「トランス排外主義者」として広まることに、どういう「危惧」があるのだろう?

「排外主義」そのものが中傷、侮辱、暴力をする側なのでは?と純粋に疑問が浮かぶ。

とりあえずその疑問はおいておいて、この段階では

いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている。ー日本でも、同じような状況がおこりつつあるのではないかと危惧している。

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

と書かれているように「ターフ」という言葉の使い方の危惧について論じるのだろう、と認識する。その「危惧」の内容が今後出てくるのだろうと思い、読み進める。

次に著者が「『ターフ』という言葉が中傷の言葉、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われるようになるのではないか、と危惧したきっかけ」として、2018年7月のお茶の水女子大のトランス女性受け入れの話に移る。

「女子大へのトランス女性受入れ」の件に端を発して、Twitter上などで「お手洗いや風呂の使用を巡っての激しい応酬へと発展する」。
著者は

日本では『ターフ』の『排除』に関しては、すでに話題は女子トイレや女子風呂からのトランス女性の排除に集約されているという感すらある

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

という。

ここで引っかかりを覚える。
ここで著者が書いている「ターフ」は、著者が「中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている。ー日本でも、同じような状況がおこりつつあるのではないかと危惧している」使い方と同じではないか。

つまり「ターフ」という言葉が発生時とは違う使われ方をしていることを「危惧しており」、「そのきっかけは」と話し始めたにも関わらず、発生時と違う使われ方をしている(もしくは読み手にはその違いがまだ明確ではない)「ターフ」という語を使って「ターフの排除に関しては」と話しているのだ。

さらに前段の末尾では、

研究者の役割を考えるとき、こうした混乱や対立がどこから生じているのか、ときほぐして考えることが必要であると私は信じている。

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

別の問題提起がされる。

この「こうした混乱と対立」も何を指しているのかわかりにくいが、文章の意図を最大限考慮すると「女子トイレや女子風呂からのトランス女性の排除の是非」と一応納得が出来る。

出来るが、その前に挙げられた「ターフ」の言葉の定義のズレへの危惧はどこへ行ったのか?という疑問は残ったままだ。

結局は
①「ターフ」という言葉の使われ方の危惧
②「女子トイレや女子風呂からのトランス女性の排除の是非」という対立
二つの問題が並べられ、どちらが主従がわからないままだ。

ここから本題に入るため、読み手としてはどちらの話をするのかわからないまま、読み進めることになる。
この時点で、書き手と読み手の前提が合っていないため、このあとの文章を読む負担がかなり大きい。

ということを踏まえたうえで、以下は自分がこの論文を読んで感じたことだ。

◆脱構築の理論は問題がある。

バトラーの理論は(すごく簡単に言えば)「ジェンダーが社会的に構築されたものならば、セックスもそうではないか」というものだ。
一読すると、極端な論に見えるが、例えば自分が「ガイノクリティシズム」という言葉に持った「子宮があるから女性である/ないから女性ではないのか」という違和感を延長すれば、「子宮以外のどの身体性(の組み合わせ)においてもそうではないか」という理屈は成り立つ。
「こういう身体特徴だから、男である/女である」という枠組みがおかしい。突き詰めれば、そういう話になる。

ただこれはさらに突き詰めれば、性差に限らなくなる。アイデンティティ全てに適応することができる。

身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされているのであったら、その再構築は自由に行われるべきではないか。

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

身体もアイデンティティも脱構築しフィクションと考えることが可能ならば、「事実」とフィクションの枠組みも脱構築し、すべてフィクションと考えることが可能だ。何なら「自他」も可能だ。
「事実」と「フィクション」も「自分」と「他人」も、理論的には脱構築することが可能になる。
「個人の意味世界」を全て解体することが可能なのだ。

これを「共産主義化理論」として実行したのが、連合赤軍だ。
彼らは自分たちが「資本主義社会で過ごして培われた内面を解体して、自己を共産主義化戦士として再構築しようとした」。暴力を持ち込むことで、肉体の限界を止揚しようとした。

「他人に対して、身体もアイデンティティもすべては『フィクション』とする」考えは、「他人の内面や過去、生きてきた意味を解体しうる暴力性をはらんでいる」ということをあの事件から社会全体で学んだと思っていた。

身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされているのであったら、その再構築は自由に行われるべきではないか。

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

自分の身体からくる感覚、アイデンティティのすべてを解体し、思うように再構築する。
この方法論を自分で用いることは、もちろん個人の自由だ。試しにやってみてもいいと思う。

だが他人に対して「あなたのアイデンティティはフィクションであり解体、再構築可能だ」ということは、自分には認めがたい。

◆一体誰のための「考え方」なのだろう。

「身体」までも社会的に構築されているのだという考え方は、人文・社会科学系のジェンダー論研究者で否定する者は、もはやいないだろう。

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載/太字は引用者)

ということだが、「『身体』までも社会的に構築されているだという考え方」は研究者以外の人には受け入れられているのだろうか? 
論文公開後の反応を見ると、一般の人に広く受け入れられている考え方とは思えない。
少子化などの議論で身体の性差が問題になるように、人はまだ生物学的な身体から逃れて社会を構築することは出来ない。

当初この文章を読んだときは「社会的にも身体的にも性差の枠組み自体にとらわれること自体が古いのでは」という現実から遊離した空論を話しているだけなのに、批判されすぎでと思った。
だが今回読み直して、「女性というアイデンティティを持ち、そこに帰属することを望む人」に、

「男も女もないこの時代に、なぜまだ男だ女だなんてそんな古い言葉にしがみついて、(略)文句ばっかり言っているの?」

(引用元:「『女』の境界線を引きなおすー『ターフ』をめぐる対立を超えて」千田有紀 「現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集 フェミニズムの現在」掲載)

という言葉を返すことに、なぜ当時の自分は疑問を持たなかったのかとそのことにむしろ驚いた。

時には性差というしがらみや抑圧を重く感じ、その反面自己の一部、不安定な自己の拠り所とするという矛盾を抱えながら日常を生きている人が、社会の中ではほとんどではないだろうか。

美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどを例に上げて「身体は自由に作り上げて良い」というが、それが可能かどうかは文化の差もある。経済格差もある、と少し考えれば思い至る。 

一体、これは誰のための「考え方」なのだろう。
こういう(経済格差も考慮されていない)生身の人間の日常、現実の社会の構成から遊離した「考え方」が「人文・社会科学系のジェンダー論研究者で否定する者は、もはやいない」なら、学問や思想は誰のためのものなのだろう。

◆まとめ

この論文の著者である千田氏は、何回かネットで文章は読んだことがあるし、ネットで話している姿を見たことがある。
賛否はともかく、なるほどと思うこともあった。

だがこの論文については、「社会の枠組みを壊すことは、その枠組みに意味を見出だしている人の内面を解体することにつながりかねない。そのために社会全体でコンセンサスを細かく取らなければならないはずなのに、社会の中で解体する枠組みと残す枠組みは、自分が恣意的に選べるという前提で話している」点がとても危ういと感じた。

仮に既存の性アイデンティティを持つことが「古い」考え方でも、それに帰属したい、拠り所にしたいと思う人はいる。
当時、トランス女性のかたがこの論文に対して「私たちは単に女性なのです」という言葉を寄せていたのもそういうことではと思った。
自分は誰のどんな意味世界も、他人が「フィクションだ。解体可能だ。再構築すればいい」ということには反対だ。

「思想のために人がいるのではなく、人のために思想があるのだ」と思っているが、思想は一見「正しく」、人は矛盾だらけなので、この主従は油断すると簡単に転倒する。

形而上的な話なら(もしくはそれこそフィクションなら)別に構わないが、思想が社会において実際的具体的な機能を果そうとすることを望むなら、この点はしっかり見ておかないといけないと改めて思った。

※要はトランス女性もシス女性を含めた「女性」という性自認(アイデンティティ)を持つ、持ちたいと望む女性に、「性別にこだわるなんて古臭い。女性という枠組みにこだわらず、アイデンティティを再構築すれば解決する」と他人が言うことには反対、ということが一番言いたいことだ。

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