「『現実で考えたらどうか』という尺度でしか創作を読まない人」って案外多いのかな?

「『葬送のフリーレン』のキャラ名をドイツ人の知人に爆笑された」という話を見かけて「金田一少年の事件簿」に対する「高校生がこんなに殺人事件に遭遇するわけないだろ」というツッコミを思い出した。

「葬送のフリーレン」という物語を読むとむしろ「フリーレンはフリーレンという名前がいい」と思う。
「葬送のフリーレン」という話の最も強い作内ルールとそこから生成される世界観は、「観念によって現実は構成される」というものだからだ。
 魔法は「イメージであり、イメージできないことは魔法に出来ない」
 
その他にも思い出(イメージ)によって、ヒンメルたちが存在したことを現実であると確認したり、天国は「生きている人間に都合がいいから」存在するなど、ストーリーや世界の作りがそうなっている。

「その言語の話者が聞いたら変だなと思う名前でも、創作だったら許される」という特定の事柄の是非の話をしているのではない。(変だなと思うケースもある)
『観念(イメージ)から現実は構成される』ということを世界観にもテーマにも含んでいる。そう考えると『葬送のフリーレン』という話ではイメージ(名前)が(キャラとして)具現化するのはおかしくない……というより、むしろストーリーを見れば自然という考え方もできるのでは」ということだ。

 ドイツ語を日常で使うような「日常の意味」に接続してしまう(イメージよりも具体的な意味が強くなってしまう)人は、違和感を抱くのは仕方がないと思う。(人におススメを聞いておいて爆笑するのはどうかと思うけど)
 ただそもそもメインで想定している読者層は日本語を日常で使っている人なのだから(だから日本語で書いているのだから)良いと思うが。

 創作は「その作品の独自のルール(神)によって構築された世界」なので、「その設定がどういう意味を持つか」は現実ではなく作内のルールによって決まる。
 内容以前の前提の世界観を生成するルールもすべて現実が優先されるなら、創作である必要がない。現実(のルールで生成された世界)で良いのに、なんで創作を読むのだろう? と前からけっこう(けっこう、二回言う)不思議だった。

以前であれば「自分に合わない、not for meだな」と思ったら、読むのを止めるだけだった。
ところが今は「ネガティブな感想」も、人と共有することで注目を集められる価値を持つ時代になってしまった。
「個人のイメージから生まれた描写を、本来はそのイメージに特に用がない人間による社会的コンセンサスのみを用いた解釈」が力を持つ時代になってしまっている。

 今までは上の記事のように「注目を集めるためにわざとそういうことをしているのでは」と思っていた。
 でもひょっとして……。
 本当に「そういう認識しか持っていない人」もいるのか?(遅い)
 これは……思いつかなかったけれど、確かにいないとは限らない。
 だとしたら、してもしょうがない話だったんだな、と今さら気付いた。 
 どちらのケースにせよ、自分にはよくわからない心境っぽいので(こういう人にとっても、自分の話は面白くないだろうから関わりもないだろうし)今後はなるべく目に入れないようにしよう。
 考えがまとまって良かった。

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