「生きづらい私は発達障害でした」への批判のどこに納得がいかないのか。

上の記事の続き。
「生きづらい私は発達障害でした」について、まだスッキリしないのでもう少し考えみた。

上記の記事に書いたように、自分は「生きづらい私は発達障害でした」のコンテンツとして読むという前提がよくわからない。
本人にとってはもちろん大事なことでそれを否定するつもりはないけれど、他人から見れば「特に興味のない自分語り」以上でも以下でもない。
日常でこういう話を聞くことは多い。
話すことが目的というよりコミュニケーションの一手段なので、「うんうん、わかる」で終わらす。お互い様だし。

前提をずらしたくないので、自分がこの疑問を持つに至った条件を上げると、
①この漫画は、特に評価もアドバイスを求めておらず、「傾聴」「同調(*共感にあらず)」のみを求める「自己完結型自分語り」に見える。
②「自己完結型自分語り」は日常やネットでよく見かける。→だから、そのたびにツッコミを入れるのか?という疑問がわく。
この二点だ。

自分がなぜこの疑問にこんなにこだわるかと言うと、「生きづらい私は発達障害でした」とまったく同じ「著者の偏った認識による解釈の記録」ではあるが、「読み手の認識を誘導する技術」が各段に優れている「デス・ゾーン」は、同じ角度で批判されていないからだ。(もちろん観測範囲の可能性もある)

「相手を悪者にして、自分を悪くないように見せる」ということ行為が批判されるものであれば、「デス・ゾーン」もまったく同じだ。
「生きづらい私は発達障害でした」は、「相手を悪役にしている」と言っても、相手の内面や背景などには言及していない。
「人格のない災厄」のようなものとしてしか描いていないことに、自分はむしろ好感を持った。
「これは作者の一方的な物の見方なのだ」と読んでいる人間がすぐにわかるからだ。

「デス・ゾーン」は「自分の一方的な物の見方が、あたかも事実であるかのように誘導している」。
どこでそう感じたかは感想記事で具体的に指摘しているので、興味がある人は読んで欲しい。

「デス・ゾーン」本書の中で、亡くなった栗城さんの事務所スタッフだった小林さんというかたが、「この本は『著者の偏った認識による解釈の記録』でしかないので、書いて欲しくない」という主旨の訴えをしている。
しかし、著者は「小林さんの人格や背景に原因を転化して、批判を受け止めることを回避する」という非常に不誠実なことを行っている。

自分が「生きづらい私は発達障害でした」を批判せず、「デス・ゾーン」を批判するのは、自分への批判や責任を回避する方法として「小林さんには母性がある」のように、相手の人格や背景を勝手に決めつけているからだ。(著者は小林さんに会ったことがないのにも関わらず)

「著者の偏った認識による解釈の記録」という同じカテゴリーの二者への反応の違いは、結局のところ「読み手の認識を誘導する技術」の巧拙の違いなのではないか

「やっていることの内実」は変わりないのに、その見せ方だけで世の中の判断が変わる。(その見せ方が不誠実であっても)
むしろさほど罪がないほうが、「人の目を誤魔化す巧みさ」がないばかりに批判される。

「生きづらい私は発達障害でした」に対する「他人(障害)を悪役にして、責任を取ることを回避している」という批判は、一見「『著者の偏った認識による解釈の記録』であること」を批判しているように見える。
しかし本当は「いかに相手を『巧く』悪者に出来るか」「自分に責任がないように『巧く』見せるか」の技術が問われているだけではないか?

「生きづらい私は発達障害でした」は、まさに「(自分が悪くないように見せるような種類の)『巧みさ』がないからこれまでの人生で困難が多かった」という話をしているのだと思う。

自分がこの件で引っかかったのはこの点だ、と書いてみてわかった。
スッキリした。


余談
「生きづらい私は発達障害でした」をあえてコンテンツに例えるとクトゥルフ神話っぽいなと思ったが、こういう方向性の話を才能がある人間がコンテンツ化したらどうなるか?

「普通の人」と「特殊な感性の人」のディスコミュニケーション、「自分とは相いれない感性」が自己も自己もとりまく世界も浸食する暴力性を、ちょっとほろ苦い姉妹のすれ違いというガワを被せて描いた恐るべき話。
傑作である。

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