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「女性の優しい男が好き、の『優しい』って何だよ?」→そう女性に聞く時点で「優しくない」

◆定期的に見かける「女性が言う『優しい』とは何なのか?」という話題。


「優しい男が好きという女性の心理が知りたい」
という増田を先日読んだ。
この話題も定期的に見かけるなと思っていたが、本文が消えていた。

「女性は『優しい男が好き』って言うが、この『優しい』とは何か」
「そうは言っても女って暴力的な男を選んだりするんじゃないか」
「ただしイケメンに限るだろ」
という反論も合わせて見るが、これは「優しい」の定義違いだと思う。

自分もこういう時にすぐに「その『優しい』と何なのか?」と聞いてしまうほうだ。
これはそういう失敗?を人生でやらかしている自分が、色々と考え合わせたうえでたどり着いた「こうではないか」という推測だ。
なので「たぶん」「と思う」「知らんけど」「主語デカいが」(*この記事は主語デカい話だ)などを各文章につけて読んで欲しい。

◆「女性が言う『優しい』」の逆は、「0日のほうが良くない?」

結論から言うと女性の言う「優しい人が好き」の「優しい」は、「私の文脈を尊重してくれる人(生きてきた過程や置かれている状況を考えて、自分の言動の意味を都度都度推測していくれる人)」ではないか。

逆に「優しくない」態度は、「0日のほうが良くない?」に代表される「相手の生きてきた過程から生まれる物の見方をすべて無視して、自分の認識のみの言動をすること」だ。
一般的に言われる「性格が悪い」もこれに当たる。

高圧的な男が好かれるのは(好かれる理由自体は複合的だと思うが、この『優しい人』の文脈だと)、「辞書の定義においてさえ『優しくない』こと」が分かっているからだ。
本来は「優しい=私の過去から現在につながるまでの文脈を尊重してくれる人」がベストだが、こんな人は稀である。
とすると「誰が見ても優しくないので、『自分は優しい』と思っている気持ちに応えなければならないという負担がない人、もしくは相手に『優しさ』を最初から期待しなくていい人」のほうが楽なのではないか。
「自分は優しい(辞書的な意味で)と思っているがゆえに、優しさの見返りを求める人間」や後述する増田のように「自分の認識を当たり前の前提として、こちらに行動するように期待(圧力)をかけてくる人間」は相手にするのは大変だ。

「優しい=他者の認識(物の見方)を尊重する」は、多くの人間にとって難しい。
ただ難しいなりに、現在のところ社会規範からくる男女の格差があるのではないか。

◆男女で「優しい」の定義がすれ違うのは、女性がケア能力を発揮するように社会規範によって強いられているから。

そもそも女性がいう「優しい」と男が考える「優しい」が定義から違うのでは、と思いついたのはこの増田を読んだからだ。

「男は女子供のようなケアを与えられず放っとかれているが、それを何とかして欲しい。女性は『男同士でやればいい』と言うが、男は社会規範によってその能力が退化させられているので、女性にお願いするしかない」というようなことが書かれている。

能力面について。母と妻以外に男性の弱さを気遣う存在として、男性があげられることはあります。
しかしそれは能力的に困難です。
先述のエントリで書いたように、男性は様々な場面で粗末に扱われる人生を生きていくためには、自分に対しても他人に対しても気遣う能力を退化させざるをえません。
多くの男性のケア能力は既に鈍麻し退化させられているのですから、男性同士が集まったからといって気遣いあえるわけがないのです。
だから男性の集まりは、競い合うライバル関係、お互いの得意分野を見せ合う趣味の会、外部に発見した敵と戦うことで一体感を得る集まりなどになりがちで、弱さへの気遣いをしあうことができません。
ならばケア能力を退化させずに生きてきた人たちが手を貸すことが望ましいですし、男性が能力を失っている以上その中心は女性になるでしょうが、それは「女をあてがえ論」だと言われてしまうわけです。

(太字は引用者)

自分はこの増田の言っていること自体は尤もだなと思うが、一点大きく考えが違う点がある。
「人をケアする能力」というのは、男女の比較で考えた時に「男が退化させた」のではなく「女性が進化させた」のだ。
男が社会規範によって「ケアする能力を鈍磨させられた」という増田の主張は正しくなく、女性は社会規範によって「ケアする能力を常に磨くことを強いられてきた」のだ。
これが増田が結果としてみている、「ケアする能力の男女格差」の正体だ。

ブコメを見ると、恐らく女性と見られるコメントは、そのことに対して怒りを表明している。
増田と同じ主張の人から見れば「穏当な発言なのに、なぜ怒るのか」と思うだろう。
だが増田の発言が「穏当だ」「妥当だ」と思うのは、他者(女性)に対して余りに鈍感であり、「優しくなさ」すぎる。
「自分の認識で相手を規定して、それを当たり前の前提として他人に行動を期待する」というのはどうかと思うが、そこにまったく気付いていない。
増田の言動は「ひろゆきレベルで優しくない」ので、女性が怒るのは当然だ。

この増田の言動はわかりやすいが、
①増田の表面的には穏当な発言→辞書的な意味での「優しい」
②言動の内実は、女性という他者の事情や認識、女性に強いられている社会規範を無視している。→女性がいう「優しくない」

に当たる。

この増田が一点良かったと思うのは、「ケア能力には明らかな男女差があり、それは社会規範が作用しているせいだ」ということを男の側でも認識している(人間が一定数いる)ことが明らかになった点だ。
この認識がないと女性がいくら「ケアしている」と言っても、男は「自分たちも優しい、気は遣っている」と言ってまったく話が進まない。

女性が言う「優しい」は、その人の日ごろの考え方、置かれた状況を考慮して、「相手の認識である『優しい』を理解する」である。
辞書の定義(もしくは自分の認識)よりも「相手が生きてきた文脈から生まれる認識」が大事だからだ。

「『優しい人』が好き」と言われた時に、「『優しい』って何?」と返す行為は、「あなたの生きた過程から生まれた文脈を、理解しようとする努力を放棄する」と同義である。
その質問自体が「優しくない」のだ。

◆性別によって、「ケア能力を発揮しろ」と圧力をかけられるのも「逃げずに戦え」と言われるのも嫌だ。

女性が強いられがちな「ケア能力=優しい」は、男で言えば何か事件が起こったときに「あれだけ男がいたのに、なぜ犯人に立ち向かわないのか」が近い。
「男」というだけで、戦うこと、人を守ることが当たり前だと思われる。
なぜ「男」という一点だけで、そんな自分の身を危険にさらすことを期待されなければならないのか。
立ち向かえる人が凄い、それだけなのだ。性別は関係ない。

自分はこういう性別という一点だけで、「ケア能力」なり「戦うこと」なりを当たり前のように期待(という名の圧力)をかけられることが凄く嫌だ。
自分の性がどちらかということは関係ない。
どちらの性であっても根本は同じなのだ。
自分と違う性に何かを当たり前のように押し付ければ、その反対のものが自分に押し付けられる。
性別を基軸にして、まるでベルトコンベアのように自分の個人の特性は関係なく、そういうものが回ってきて当たり前のように目の前にあるものを処理することを期待される。
だから「女性に女性というだけでケア能力を当然のように期待する増田」も「男に男というだけで戦わず逃げることをまるで悪いことのように言うこと」両方反対だ。

自分もこの文脈で言えば、大して「優しくない」。
だから「『優しくない』と駄目だ」と言いたいわけではない。(むしろ反対に「お前はこの属性だからこうしないと駄目だ」を言われることにうんざりしている。つまり上記の増田を読んだときに、すげえうんざりした)

ただそんな自分でも、好きな人や自分がわかりたいと思う人、自分に良くしてくれる人については、この精神を発揮して相手のことをなるべく理解したいと思っている。
下手くそなりに頑張りたいものである。

◆余談:「優しい」とは何なのかはヒンメルを見ればわかる。

「葬送のフリーレン」のヒンメルを見ると、「優しい=相手の文脈を尊重する人」とはどういうことかわかる。

中でも一番凄いのは、ヒンメルはすさまじくフリーレンのことが好きだったのに、自分の気持ちをフリーレンに一切悟らせなかったことだ。
ヒンメルが「自分が死んでからも、人に覚えていてもらうことで生きていたい」と思ったのは、フリーレンが未来で独りぼっちにならないようにするためだ。
そのために各地に自分の足跡と銅像をたくさん残した。
フリーレンは本人が言っている通り、生きていたころはヒンメルのことを知ろうともしなかった。「そんなことをしてもどうせすぐに死んじゃうじゃん」という暴言を二回吐いている。
しかし、ヒンメルはそんなフリーレンをひと言も咎めない
(アイゼンが咎めていた)。ちょっと寂しそうな顔をするだけで、不快な素振りも見せない。
「自分のことを知って欲しい、わかって欲しい」とひと言も言わずに死んだ。
ヒンメルはフリーレンの心が、自分にまだ追いついていないことを知っている。だから自分が死んでしまうにも関わらず何も言わなかったのだ。

ヒンメルはフリーレンに対して「フリーレンの文脈で」常に行動している。
9巻では「自分が死ぬ二百年後にフリーレンが渡るかもしれないから」と橋を修理したり、フリーレンが恐らくその言葉は受け取れないだろうと思う時は何も言わず、フリーレンが言って欲しい時には自分の意見を言う。

フリーレンとヒンメルはヒンメルが死ぬまでは大きな感情の温度差があり、認識がすれ違っている。
だがヒンメルは、自分の認識でフリーレンとの関係性を解釈しようとした形跡がほとんどない。(だから死んだ後に、フリーレンが「この人のこと、何も知らない」と思う)

アイゼンやハイターがヒンメルのことを思い出す時も、「勇者ヒンメルならそう言う」ではなく、「勇者ヒンメルならそうする」だ。
自分の認識(判断)を相手に押しつけず、ただ自分の判断で動くのは自分のみなのだ。

ヒンメルがフリーレンにしたような対応は、生身の人間にはほぼ不可能だ。
ただ「優しさ」を発揮したいなと思う相手がいる時は、「君が未来で一人ぼっちにならないように」という精神を見習いたいものである。

「葬送のフリーレン」 山田鐘人/アベツカサ 小学館

アニメ化楽しみ~。

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