繊細な人、卑怯な人、色々な人の表現を見たいが、その負担を誰が引き受けるか。

*はてな界隈の話です。

ブログにデマブコメをつけられたブロガーの人が「ブコメに返信機能をつけて欲しい」と書いたら、ブコメでは否定的な人が多かったという話。

「運営から提案があり、それに答える」というならわからないでもないが(返信機能を付けるのは賛成だが)デマ被害を訴えている人に対して「言いっぱなしに出来るところがいいんだ」というコメをつける人にはさすがに引いた。

それはそれとして、上記増田についた

私は「繊細(または卑怯)」な人のコメントも読みたい(できるだけ色々な人が表現をしてほしい)と思っているのでマッチョになり過ぎたくないが、しかし件のブコメ群のような連中が抑圧している表現もまたあるのよな

このブコメに超賛成だ。

ネットが登場する前は、不特定多数の人に自分の考えを公表できるのは、ごく一部の限られた人の権利だった。
特定の大きなメディアが情報発信や表現の権利を独占していて、世の中の大多数の人は情報や意見、表現を一方的に受けとる側で「表現者」としては透明化されているアンバランスな状態だった。

「ある一定のリテラシーがなくては表現してはならない」という基準を設ければ、その審査の権限が権力となり、そこから生まれた権力者が決めることになる。(その権力を今はプラットフォーマーやIT企業が握っているのでは、という問題は出てきたが、とりあえず今回は割愛)

なので「誰でも発言が認められる状態」は前提だが、様々な理由で他人に対して言い返せない→ゆえに言い返される可能性があるメディアでは発言出来ない人(撃たれる覚悟がないのに撃ちたい人)のことをその「誰でも」の中に含めるか。

自分も上記のブコメと同じで、そういういわゆる「卑怯な人」の本音も聞きたい。
性根が卑怯だからと言って、考えが聞く価値がないとは限らない。
自分の安全が確保されていて本音で話すことが出来る場なら、自分が思いもつかないようなこと、「そういう考えもあるのか」と思うようなことを聞くことが出来る可能性もある。

実際増田がそうだ。
完全匿名でなければ書けないと思う内容も多いし、そういうものだからこそ面白い、こんなことを考えている人もいるのか、という気付きがある。

ただそうなると、絶対に言い返されない場でしか本音が言えない人、言葉足らずでうまく思考を表現できない人、怒りが強すぎて感情的になりやすい人、こういう人たちの表現の負担を誰が引き受けるか、という問題が出てくる。
例えばはてな内で起きた事件の加害者のような人間の表現は、ブコメという百文字でさえ一人の人が受け止めるには限界がある、と当時よく言われていた。

今のところは、「なるべく表現には規制を設けず、その表現の負担が一か所に集中しないような仕組みを作る」くらいがベターなのかなと思っている。
誹謗中傷やデマはいかんという当たり前のことにつながるが。

自分は文章を書くことが好きだし「とりあえず自分が言いたいことは分かってもらえている、伝わっている」という手ごたえが得られることが多い。
でも中には言葉で自分の考えを表現することが苦手、物理的に時間が取れない、性格的に自己主張するハードルがかなり高い人もいるだろう。
そういう人が「書くことが好きで時間も取れて言葉で自己主張することが得意な人」と同じように表現の自由を持てているのか、というと難しい問題だなと思う。

言葉の世界では「言葉をうまく使えること」が力として機能するが、その力はかなり個人差がある。「(すべての条件が組み合わさって)うまく使える側の人」にとっては、それが実感しづらいのではと思うことがある。
自己責任論ではないけれど「書きたければ、誰でも書けるはずだ」と思いがちと言うか。

明らかにきちんと読んでいない雑な短文コメや誤読しているよくわからないコメをつけられることもあるので、書く側の負担もわかるから難しいところだが。

色々な理由で、短文でインパクトのある内容でしか自己主張出来ない人の表現の自由と、そういう言葉を受け取ることで負担がかかる人のバランスをどこで取るか。

今後の課題かもしれない。


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