「我ながらフェミニズムの観点で作品を見すぎ」と思う自分が、「男らしさを降りればいい」という言葉に対して思ったこと

◆フェミニズム批評しすぎ。

「創作だからいいんだけど」
「自分は気になるが(というより気になるからこそ)あってもいいと思う」
「でも自分がもし、創作において女性の描写を気にするとしたら」
と言いながら、フェミ批評しすぎだろと我ながら思う。
 少しでも女性の主体性が抑圧されていて、それに作品全体が無自覚では(批判的な視点がなく描かれている)と思うと本筋そっちのけで気になってしまう。

 楽しんで観た人には申し訳ないが「リボルバー・リリー」はこの点がかなり気になる。

「男に教育されて暗殺者になってその男の妻になり、男が死んだあともその男が言った『殺し合いにも身だしなみは大事』という言葉を忠実に守る。
男は、子供を亡くした自分に死んだと嘘をついて行方不明になり、他の女性との間に子供を作って夢を追う。実は生きていた男の子供と夢を託されたことを『勝手な人』のひと言で許す。百合自身は水野以外の何が大事で、どんな考えや意見を持っているかわからない」
「水野の夢」以外、百合の中に考えらしきものが見当たらない。
 百合は一見、男とも渡り合える女性だからこそ、内面の主体の無さ(「主体性のなさ」ではなく「主体のなさ」)がいっそう気になる。

「属性の内実やその人自身の価値や可能性」を他者に規定され続けてきた(自分自身の意思や考えに沿って、人生における自分の可能性を自由に追求できなかった)

 女性が受けてきた抑圧はこういうものだと思う。
 なので、自分にとって創作における女性の描写の観点は「戦うかどうか」「エロいかどうか」「気が強いかどうか」という表面的な部分ではない。
 百合が戦闘員として強い弱い、エロいエロくないよりも「水野という存在を抜きにしたら、百合自身は日本の現状をどう思っているのか、日本はどうなるべきだと思っているのか」と聞いたら何も考えが出てこなさそうなところが気になる
 水野にただ盲目的に従うだけなのに、ストーリーにおいてその点は最初から最後まで問題として表面化されない。


◆問題点①社会の方向性を決める主体を男に預けることになる。

 そんな自分から見ると、少し前に話題になった「辛かったら男らしさを降りていい」という言葉を女性が男性に言うことの問題点はふたつある。

 ひとつは性規範を失くすという課題において、男性に課題(社会)をコントロールする主体を預けてしまっている。

「男らしさを降りるかどうか」はその人自身が決めることで、それ以外の人間が出来ることは「男が男らしさを降りるかどうか」を選べる環境(社会)を作ることだ。
 それが社会をどういう方向へもっていくか主体的に選ぶということだと思う。
 女性が主体的に場を形成する意思を持つことで、初めて「男らしさ/女らしさ」を「人間らしさ」に脱構築することが可能なのではないか。

「男らしさ(事態や課題に対して主体的に責任を背負うことに対する圧力)が男特有のもの」でなくなれば降りやすくなる人もいるだろうし、「男らしさにコミットする意味や価値を感じなくなる人」もいるだろう。
「自分は男らしさを大事にしたい。それが自分自身だからだ」という人はもちろん自由にすればいい。女性でもそういう人がいるだろう。

「男が男らしさを降りれば性規範はなくなるはず」という考え方には、自分は賛成しない。
 男らしさと女らしさは表裏一体であり、男だけの問題ではない。
 そのように「物事を動かしたり決定する力、責任は他人(男)にしかなく、任せるべきだ」という発想こそ性規範的な「女らしさ」だと思う。


◆問題点②その人のアイデンティティや内面を尊重することが、「人として尊重する」ということでは。

 ふたつめは「男」の部分に民族など他のアイデンティティを入れればすぐにわかる。(と思う)   
 歴史上でも、今現在も、この問題で宗教や民族同士は争いを続けている。

 抽象論では「降りた」とはどういうことかが説明出来ないから、日常の些細な言動に落とし込み、その言動から「降りたかどうか」を他人が測るようになっていく流れは、総括を思い出した。
 漫画にもなったので有名ではあるが、連合赤軍事件は犯人たちが詳細を手記を書いて残している。
 それを読むと「なぜ、ああいうトンデモ理論に囚われてしまったのか」という思考がわかりやすい。

 その思考に囚われていない第三者から見れば、「個人のアイデンティティを解体、構築し直すことで人として高次の次元に生まれ変わる。そのことで社会を変革しうる」という理論の馬鹿馬鹿しさはすぐにわかる。
 自分が永田洋子や坂口弘の手記を初めて読んだのは高校生の時だが、大の大人がなぜこんな馬鹿げた理論を信じたのかまったくわからなかった。

「有害な男らしさを捨てろ理論」は、森恒夫が唱えた「革命戦士理論」と同じだ。
「資本主義社会によって構築されたブルジョワ精神を解体することで、初めて革命戦士(真の人間)として生まれ変われる。そのことによって社会を変革する」
「男社会によって構築された男らしさを降りることで、初めて人間らしくなれる。そのことによって社会が変わる」

 他人のアイデンティティの必要性や正邪を自分がジャッジすることができる。正邪を判定できるのだから構築し直すことができる。
という発想がそもそも相手を人として尊重していない。
 同化政策はこの発想で行われる。
「民族意識から降ろさせて人(国民)として扱う」のが同化政策だからだ。

 他人のアイデンティティを解体して構築し直していい、その善悪を自分が判断し指図することができるという発想は、歴史上、何度も繰り返されてきた。どれだけ悲惨な結果になるかわかっていても、この発想(有害な人間らしさ?)を捨てられないのは何故なのか。
 女性は、自らのアイデンティティを主体的に発現できず、抑圧されてきた歴史がある。  
 それひとつ見ても「他者のアイデンティティの必要性や善悪を勝手に判断し、構築し直すことができる」という傲慢さに対してはノーと言わなくてはいけないと思う。


◆自分の考えをツラツラ書くのは、輪の中に入らないようにするため。

 自分は内面やアイデンティティという個人の内部の枠組みは、社会を理由にして抑圧されるべきではない、と思っている。その点はどの属性かは関係ない。
 社会というのは独立した枠組みの個人の集合体であるべきであって、社会の中で個人を融解させてはいけない。
 この二つは歴史を見ればわかるように簡単に転倒する。社会を理由に個人の内面の枠組みに介入するような言動には常に注意しなくてはいけない。

「自分という枠組み」は簡単に壊されて社会の一部として溶け込んでしまったりする。
 その輪の一部になって思考を相対化できないと、どんな馬鹿げた理論でも正しいと信じてしまう。

 自分はネットでどんな考えや対立軸が主流か、どんな党派があるのかよく知らないし、そこにはほとんど興味がない。
 自分の考えをもとに意見を都度都度書いて、思考の輪郭を確認することが、自分にとって輪の中に取り込まれないために必要なことなのだ。


※うちのオカンのフェミニズムについて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?